津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

幽齋息ちゃち

2008-06-07 16:28:34 | 歴史
 天正十三年(1585)幽齋に男子が誕生している。幽齋の生年は天文三年(1534)年であるから、51歳の時の子供である。「ちゃち」と兼見卿記に記されたこの男子は、幽齋の末子・茶知丸、後の細川孝之(中務少輔・休齋)である。

 兼見卿記の慶長元年(1596)の記述に突然、この「ちゃち」が登場してくる。時に「ちゃち」十歳である。
七月九日、「幽齋息茶ち、自丹後上洛」兼見は息・左兵衛尉が準備した宿に「及暮茶ち為見舞」に罷向っている。翌日幽齋も伏見に出てきて「茶ち為礼入来」とある。十七日、「幽齋息ちゃち、今夜オトリ、彼小性衆数輩也、奇麗也」又、廿六日「於八条殿幽齋息ちゃち、二三番舞曲、入夜初之云々」とある。

 廿九日には、忠興嫡男与一郎の祝言が執り行われている。「前田筑州息女也、用意歴々也」
 
 八月四日「於左兵方幽齋乱舞、罷向、明日於南禅寺息ちゃち、舞曲、当方各入来云々、内々稽古・・・自今夜幽齋・同女房衆・息ちゃち、南禅寺へ被罷出了、明日者未明興行云々・・・」
 八月五日「早天南禅寺へ罷向、語心院幽齋舎弟也(註・梅印元冲禅師)当院二在之、罷向了。伊勢国司常真(註・信長息)御出、滝川下総守、飛田左近、其外当方之衆、越中(註・忠興)同道、見物貴賎群集也、朝食各相伴、前田肥前守已下為数輩、巳刻舞曲発之、翁・脇之能鵜羽観世大夫、二番ちゃち・敦盛、三番芭蕉・常真、已上十番日入終之、余罷帰了」
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兼見卿記から--孫女たつ

2008-06-07 14:36:30 | 歴史
 先日のブログ「兼見卿記から--ミツ」で間違いを書き込んでしまった。「ミツ」の妹「たつ」を船橋従二位秀相室ではないかと推測でかいたが、これが違っていた。
 慶長四年四月十日「今度孫女たつ、江州甲賀郡名塚大蔵少輔舎弟又助、息へ内縁之事兼約、当月十三日頻ニ申来之間、不及是非同心、於右兵衛督方用意之銀子二枚、姉孫女ミつ、小袖一、遣之、予雖為少分之儀、令隠居以来毎事不如意也、姉孫女先年予悉皆調之、彼是不事届仕合也、無念/\、非本意」とある。

 このことについては、一部ぴえーるさんがブログで紹介されていたが、名塚大蔵少輔とあるのは「長束大蔵少輔」のことである。細川家史料との違いが見受けられるのは、「大蔵少輔舎弟又助・息」が「たつ」の相手だという記載である。細川家史料は「大蔵少輔・息」としている。

 姉孫ミつに比して、妹孫たつの輿入れに満足な準備がしてやれない事を嘆いている。

 同十三日「早天孫女たつ、発足用意之、甲賀ヨリ人足、七十人余来、自名塚大蔵少輔、送侍二人乗馬、至甲賀郡路地/\送之儀申付之由了、諸具大方出来、再三祝儀、大慶/\/\ (中略) 今朝曇、出門之砌晴、多幸/\/\」この慶事に当たっての細川家側の動きは記されていない。 

  
 ※ -----+---兼英 兼治家督
       +---萩原右衛門督兼従
       +---愛宕山福壽印住持幸賢法印
       |
       |  阿野中納言実顕   キントミ    キンナリ
       |       |----------公福==公業---実藤(生母・木下勝俊女)
       +--------ミツ (公業は公福弟)
       |
       |  長束大蔵正家男・半左衛門(細川家臣田中氏祖)
       |               |
       +-------------------たつ
       |
       +---船橋従二位秀相室---相賢==経賢
       +---小笠原備前長元室・たま(細川家臣)
       |        迦羅奢夫人殉死少斎嫡子
       +---清田石見室(細川家臣)

 半左衛門について、ここでは細川家史料にもとづき、「長束大蔵正家・男」としておく。
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