天正十三年(1585)幽齋に男子が誕生している。幽齋の生年は天文三年(1534)年であるから、51歳の時の子供である。「ちゃち」と兼見卿記に記されたこの男子は、幽齋の末子・茶知丸、後の細川孝之(中務少輔・休齋)である。
兼見卿記の慶長元年(1596)の記述に突然、この「ちゃち」が登場してくる。時に「ちゃち」十歳である。
七月九日、「幽齋息茶ち、自丹後上洛」兼見は息・左兵衛尉が準備した宿に「及暮茶ち為見舞」に罷向っている。翌日幽齋も伏見に出てきて「茶ち為礼入来」とある。十七日、「幽齋息ちゃち、今夜オトリ、彼小性衆数輩也、奇麗也」又、廿六日「於八条殿幽齋息ちゃち、二三番舞曲、入夜初之云々」とある。
廿九日には、忠興嫡男与一郎の祝言が執り行われている。「前田筑州息女也、用意歴々也」
八月四日「於左兵方幽齋乱舞、罷向、明日於南禅寺息ちゃち、舞曲、当方各入来云々、内々稽古・・・自今夜幽齋・同女房衆・息ちゃち、南禅寺へ被罷出了、明日者未明興行云々・・・」
八月五日「早天南禅寺へ罷向、語心院幽齋舎弟也(註・梅印元冲禅師)当院二在之、罷向了。伊勢国司常真(註・信長息)御出、滝川下総守、飛田左近、其外当方之衆、越中(註・忠興)同道、見物貴賎群集也、朝食各相伴、前田肥前守已下為数輩、巳刻舞曲発之、翁・脇之能鵜羽観世大夫、二番ちゃち・敦盛、三番芭蕉・常真、已上十番日入終之、余罷帰了」
兼見卿記の慶長元年(1596)の記述に突然、この「ちゃち」が登場してくる。時に「ちゃち」十歳である。
七月九日、「幽齋息茶ち、自丹後上洛」兼見は息・左兵衛尉が準備した宿に「及暮茶ち為見舞」に罷向っている。翌日幽齋も伏見に出てきて「茶ち為礼入来」とある。十七日、「幽齋息ちゃち、今夜オトリ、彼小性衆数輩也、奇麗也」又、廿六日「於八条殿幽齋息ちゃち、二三番舞曲、入夜初之云々」とある。
廿九日には、忠興嫡男与一郎の祝言が執り行われている。「前田筑州息女也、用意歴々也」
八月四日「於左兵方幽齋乱舞、罷向、明日於南禅寺息ちゃち、舞曲、当方各入来云々、内々稽古・・・自今夜幽齋・同女房衆・息ちゃち、南禅寺へ被罷出了、明日者未明興行云々・・・」
八月五日「早天南禅寺へ罷向、語心院幽齋舎弟也(註・梅印元冲禅師)当院二在之、罷向了。伊勢国司常真(註・信長息)御出、滝川下総守、飛田左近、其外当方之衆、越中(註・忠興)同道、見物貴賎群集也、朝食各相伴、前田肥前守已下為数輩、巳刻舞曲発之、翁・脇之能鵜羽観世大夫、二番ちゃち・敦盛、三番芭蕉・常真、已上十番日入終之、余罷帰了」