明治6年(1873)から明治20年(1887)迄の14年間、山梨県の県令をつとめた藤村紫朗が主に学校建築に取り入れた、擬洋式建築である。建築史的には別段特筆される様なものではないが、擬洋風建築を近代化の視覚的象徴とした。
この藤村こそ、横井小楠の「士道忘却」事件の基となった、吉田邸襲撃事件の下手人の一人、黒瀬市郎助の実弟である。殺された吉田平之助の息・傳太が仇討に出、五年の苦労を経て明治元年二月鶴崎で本懐を遂げる。私の曽祖父が「吉田傳太復仇録」を残した。
黒瀬家の二男であったが、細川藩士菅野家の養子となって嘉右衛門と改め、尊王攘夷運動に入り、兄・市郎助の事件後の文久三年八月脱藩している。藤村姓に改め戊辰戦争では軍監等を勤め立身し明治六年に、山梨県令となっている。20年3月愛媛県知事、後男爵、貴族院議員となった。・・そして「藤村式建築」を残した・・
この藤村こそ、横井小楠の「士道忘却」事件の基となった、吉田邸襲撃事件の下手人の一人、黒瀬市郎助の実弟である。殺された吉田平之助の息・傳太が仇討に出、五年の苦労を経て明治元年二月鶴崎で本懐を遂げる。私の曽祖父が「吉田傳太復仇録」を残した。
黒瀬家の二男であったが、細川藩士菅野家の養子となって嘉右衛門と改め、尊王攘夷運動に入り、兄・市郎助の事件後の文久三年八月脱藩している。藤村姓に改め戊辰戦争では軍監等を勤め立身し明治六年に、山梨県令となっている。20年3月愛媛県知事、後男爵、貴族院議員となった。・・そして「藤村式建築」を残した・・