津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

藤村式建築

2008-06-13 16:41:00 | 歴史
 明治6年(1873)から明治20年(1887)迄の14年間、山梨県の県令をつとめた藤村紫朗が主に学校建築に取り入れた、擬洋式建築である。建築史的には別段特筆される様なものではないが、擬洋風建築を近代化の視覚的象徴とした。

 この藤村こそ、横井小楠の「士道忘却」事件の基となった、吉田邸襲撃事件の下手人の一人、黒瀬市郎助の実弟である。殺された吉田平之助の息・傳太が仇討に出、五年の苦労を経て明治元年二月鶴崎で本懐を遂げる。私の曽祖父が「吉田傳太復仇録」を残した。

 黒瀬家の二男であったが、細川藩士菅野家の養子となって嘉右衛門と改め、尊王攘夷運動に入り、兄・市郎助の事件後の文久三年八月脱藩している。藤村姓に改め戊辰戦争では軍監等を勤め立身し明治六年に、山梨県令となっている。20年3月愛媛県知事、後男爵、貴族院議員となった。・・そして「藤村式建築」を残した・・
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先祖探し

2008-06-13 11:35:45 | 徒然
 我がサイトは何と言っても「新・肥後細川家侍帳」がメインである。川口恭子先生の「細川家家臣略系譜」に、松本寿三郎先生の「肥後細川家侍帳」をくっつけるという、とんでもない代物だった。追々いろんな情報を得て書き加え、現在の体裁になってきたのだが、所詮「他力本願」の域を出ない。それでも「先祖探し」に当サイトを訪ねていただき、十数家の方が御先祖様を探し出された。お手伝いの一端をにない喜んでいただけると、当方とて感慨一入である。ここ一月ほど一週間毎、定期的にメールが送られてくる。お送りした「先祖附」の訓下にチャレンジしておられて、数行づつ送られてくる。こちらも控えに取っておいた「先祖附」を取り出し、添削めいた事をしてお返ししている。
 いろんなお尋ねがあって「先祖附」でご先祖様が確認できたら、コピーをお送りしている。どちらのお宅も大変な驚きようで、早く内容をお知りに成りたいのは当然だが、私は原則として「訓下」はご自身でおやり頂くようお願いしている(例外もある) そうして先のようなことになるのだが、数百年の時空を越えて御先祖様のことを考える、良い機会になっている事が嬉しい。それとともに「古文書に慣れ親しんで、郷土の歴史を勉強したい」などとメールに書かれているともう涙ものである。専門家に「訓下」を頼まれた方もお有りになる。どんな形でも良い、これを機会に遠い御先祖様に心を通わせて頂くと、我がサイトの存在も「捨てたものではない」と一安心するのである。今日も五度目の定期メールが入ってきた。
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