津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

細川家家臣・朽木氏

2008-06-12 15:03:15 | 歴史
 細川家家臣朽木氏の初代は昭貞、三渕藤英(細川幽齋・兄)の子である。
三渕家系図は次のように記すが、当の朽木家系図は昭知・昭長は子・孫となっている。

三渕家系図
 三渕晴員---+--藤英---+--秋豪---藤利
         |       |
         |       +--昭貞
         |       |
         |       +--昭知 ?
         |       |
         |       +--昭長 ?   
         |
         +--幽齋
         |
         +--好重

朽木家系図    1
 朽木稙綱===昭貞---+--某
                |  2       3
                +--昭知---+--昭重------昭眞
                        |  4        |
                        +--昭長      |
                        |  5        ↓  6
                        +--昭員-----(昭眞)昭直

 朽木昭貞は六兵衛、兼見卿記に其の名が度々現れ、近しい交際が行われていた事が伺える。
代々重職を勤め明治に至っている。
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阿曽神主・玄与

2008-06-12 11:34:28 | 歴史
 兼見卿記寛永二年二月八日に「幽斎朝餐招請了 玄与阿曽神主・恩斎相伴、清少納言・極臈・妙左、為幽斎見舞入来了」とある。「玄与阿曽神主」が、「玄与日記」の当人であることに気づいた。玄与をして「阿曽神主」としていることが面白い。

 近衛信輔は、二条昭実と関白職を争ったが、秀吉の介入するところとなった。口実を以って関白職を秀吉に奪われ、且つ又秀吉の怒りをかい文禄三年四月勅勘により薩摩へ流される。慶長元年九月勅許が下される。帰京に際しお供をしたのが、薩摩の島津氏に身を寄せていた玄与(阿蘇惟賢)であり、その道中に於ける日記「玄与日記」は紀行文として貴重なものであり、その和歌や連歌は文学上においても注目されるという。

 その玄与が幽斎とともに招かれていることを記している。

 「玄与日記」によると信輔一行は文禄五年七月十日(10/27慶長改元)薩摩を出発、九月廿四日京に入っている。旧知の玄与は幽斎に各地を案内されたりしている。十一月十六日には幽齋出席の乱舞の席などに招かれ、息茶智丸の太鼓などを楽しんでいる。十二月五日常心の能興行が行われ幽齋九番、茶智丸三番などと記されているところを見ると、玄与も出席したのだろう。兼見卿記は「於伏見幽齋息ちゃち舞曲、於常心興行云々」と記録する。
 
 年が変わって二月八日の兼見卿記に上の記録が見えるのだが、玄与日記には何も記されていない。前日七日「近衛様へ、幽齋老御案内し申参候也」と玄与は記し、兼見は「幽齋出京、及晩罷向、相談了」と記す。「十一日幽齋老より態御飛脚給り、其故一條殿御連歌に参候得ども、ふしみへ下り申候。この頃玄与は伊勢などに旅立ち、ニ十日伏見に帰り、三月一日伏見を出立廿三日薩摩に帰っている。

 近衛信輔、細川幽齋、兼見、玄与などの行動が垣間見えて面白い。
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