津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

セメントを撒く

2008-06-25 12:59:40 | 徒然
 十日ばかり前(?)のYahooトピックスに、モスクワ(?)の住宅街に、セメント袋が空から落ちてきた事が紹介されていた。モスクワではいろんな記念式典が催される時、雨が降るのを止める為に上空でセメントを撒くというのである。その一袋が落下して住宅の屋根を壊した。「ほんまかいな」と笑ってしまった。正直「藩校サミット」の当日にやったらどうなっただろうと思ったりする。ロシアが本気でやっているのだから、科学的根拠に副うものだろうが、建築が専門の私としては首を傾げざるを得ない。
 熊本は23日太陽をみたが、前後ずっと雨である。建設業界が不況の中、セメントの需要拡大の為に空に進出しては如何と思ったりする。それにしてもよく降る。昭和28年の熊本大水害は6月26日、55年の歳月が流れたが私のトラウマは消えない。
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合点のいかぬこと

2008-06-25 12:32:05 | 歴史
 綿孝輯録に、槙嶋玄蕃頭昭光(昨日のブログ参照)に係わる「似て非」なる二つの文章がある。

(Ⅰ)上野清信其後逆心仕、義昭公より御征伐被仰付、郡大和守・槙嶋玄蕃頭両人ニ而討果申候 
   此儀備後国仙水山合戦之砌と言伝 と云々(綿孝輯録巻二・p70)
(Ⅱ)上野大和守・秀政
   秀政重々の非義ありける故、義昭公御法体以後、槙嶋玄蕃昭光に仰て、泉水山にて誅せられ
   候、秀政は昭光か婿成ゆへ、秀政が子を育ミ置、後ニ忠興君に達して、御家人と被成候、其時
   の御意に、上野は当家に対して敵なれは、家号を改めよと被仰、郡主馬名字をあたへ郡勘右衛
   門と名乗候なり(綿考輯禄巻□・p□□)

 諸資料をみると、上野清信と上野秀政は同一人物とは考えにくい。
名前をさておき(Ⅰ)(Ⅱ)の文章を検証すると、内容は合致しているように思える。
「備後国仙水山合戦」というものの資料がなく、如何なるものであったのか窺い知れないでいる。

 さて槙嶋家の菩提寺禅定寺の資料によると、槙嶋玄蕃頭昭光(云庵)の室は上野清信の姉とされている。仮に二人が同一人物だとすると、上記(Ⅱ)に「秀政は昭光か婿成ゆへ」とあり、いささかの違和感がある。その遺児を昭光が育てて、後「郡」の苗字に変えさせて御家人としたというのである。(Ⅱ)の郡主馬とは、細川忠興女・古保(長岡佐渡興長室)の生母が、郡主馬宗保女であることから宗保と推測している。(確証なし)
上野清信(=秀政?)に痛めつけられた、幽齋・忠興親子の気持ちが伺えて興味深い。

参考:郡主馬宗保
 細川忠興側室(古保生母)藤(松の丸)の父  
 伊丹親保の子、荒木村重臣。村重没落後は豊臣秀吉に仕え、馬廻り衆三千石。
 大阪陣では西軍において働くも後自害。子孫は黒田家に仕えた。
 村重一族誅伐の折り宗保女、乳母の隠し置き難を逃れ、後織田信澄に仕え、忠興妾となる。
 尚三渕伯耆守(藤英孫)の室は郡宗保母と云う(肥後藩主要系図・三渕家)
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