明治二十二年十二月廿七日付の「大赦証明書」なるものがある。玄祖父・上田休兵衛のものだが、「検第七壹参號」という数字が気になっていた。この年の二月明治憲法の発布とともに制定された「大赦法」により、いわゆる国事犯が大赦を受けている。中には大久保利通を襲った島田一良なども含まれていて、「殺人犯と同じに扱われては堪らない」気持ちにさせる。当時の「大赦法」の内容はよく知りえないが、現行「恩赦法」で「大赦」をひも解くと次のように有る。
第2条 大赦は、政令で罪の種類を定めてこれを行う。
第3条 大赦は、前条の政令に特別の定のある場合を除いては、大赦のあつた罪について、左の効
力を有する。
1、有罪の言渡を受けた者については、その言渡は、効力を失う。
2、 (省略)
第9条 復権は、有罪の言渡を受けたため法令の定めるところにより資格を喪失し、又は停止された
者に対して政令で要件を定めてこれを行い、又は特定の者に対してこれを行う。(以下略)
明治の「大赦法」も、そう変わりないものだと考えても、死人に「その言渡は、効力を失う」と言われても、釈然としないのは当たり前だろう。713名以上の人が大赦されたわけだが、明治の維新はこのような大きな犠牲を払っている。所詮正義とは、勝者の論理でしかない。
第2条 大赦は、政令で罪の種類を定めてこれを行う。
第3条 大赦は、前条の政令に特別の定のある場合を除いては、大赦のあつた罪について、左の効
力を有する。
1、有罪の言渡を受けた者については、その言渡は、効力を失う。
2、 (省略)
第9条 復権は、有罪の言渡を受けたため法令の定めるところにより資格を喪失し、又は停止された
者に対して政令で要件を定めてこれを行い、又は特定の者に対してこれを行う。(以下略)
明治の「大赦法」も、そう変わりないものだと考えても、死人に「その言渡は、効力を失う」と言われても、釈然としないのは当たり前だろう。713名以上の人が大赦されたわけだが、明治の維新はこのような大きな犠牲を払っている。所詮正義とは、勝者の論理でしかない。
横井小楠にかかわる本を数冊読破した。最初の圭室諦成氏の著を最初に読んだのがいけなかった。「実学党擁護派」を承知で読んでも、その論調の脱線振りはあきれるばかりで、松村玲氏もその著書「横井小楠《増補》儒学的正義とは何か」で、一部指摘されている。私事で恐縮だが、圭室氏の玄祖父・上田休兵衛を「敬神党」の一人などとする認識は噴飯ものである。三上一夫氏著「横井小楠・その思想と行動」における休兵衛の見方にも甘さを感じる。先にも記したが、松村玲氏の著作に於ける、礼を尽くした関係者に対する指摘には好感が持てる。しかしその指摘は峻烈である。やり玉に上がったのが、地元の堤克彦氏の「天道覚明論の作者は元田永孚」とする説だ。いささか強引な感じは否めない。小楠の「嗟乎血統論、是れ豈に天理に順ならんや」にみる、「血統論}の真実を知りたいものだが各位の突っ込みが今ひとつに感じられる。また熊本に於いて横井小楠の研究・顕彰活動をつづけられる徳永洋氏の「横井小楠・維新の青写真を書いた男」も、地元の理を生かして関係文書を新に発見されるなど、活躍が目覚しい。ともあれ小楠が今ひとつ熊本で評価されないのは何故か・・・「酒失」「士道忘却」が災いしたか・・・熊本人の足の引っ張り合いも、いい加減にしなければならない。
徳川将軍家は八代吉宗が紀伊家から入って、いわゆる秀忠の血筋が絶えた。細川家も同様で斉茲が宇土細川家から入ると、忠利の血筋が絶える。「爪の端」ではないが、徳川と細川の姻戚関係の再構築(?)が始まる。斉樹は将軍家斉とは義兄弟之関係にある。
徳川吉宗---+--家重----家治===家斉---家慶---+--家定---家茂==慶喜・・・・・・・恒孝
| |
| +--慶昌ロ
|田安家
+--宗武---治察==斉匡---+--斉位イ
| |
| +--慶寿ハ
| |
| +--●慶永(越前福井藩)
| |
| +--慶頼
|
| +--家斉
| |
| +--斉匡
|一橋家 | イ ロ ハ
+--宗尹---治済---+--斉敦---斉礼==斉位==慶昌==慶寿
|
+---紀姫(蓮性院)
|
細川斉茲---斉樹==斉護---+--韶邦・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・護煕
|
+--勇姫
越前福井藩 |
松平斉善==●慶永(春嶽)
(家斉24男)
熊本市との友好都市の関係にある福井市は、その関係を 「天保11年(1840年)、熊本藩主・細川斉護の三女勇姫が、福井藩主・松平春嶽のもとに輿入れ、また、安政4年(1858年)には、熊本藩士・横井小楠が春嶽に招かれ、藩政改革を指導した。」 と解説する。春嶽や小楠の開明的な考えは、保守王国熊本では受け入れられず、維新の歩みだしは二歩も三歩も遅れてしまった。
徳川宗家現当主恒孝氏と、細川家当主護煕氏は義従兄弟の関係にある。(護煕氏の父・護貞氏の妹・寺島雅子のお嬢さんが恒孝氏ご令室)
徳川吉宗---+--家重----家治===家斉---家慶---+--家定---家茂==慶喜・・・・・・・恒孝
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| +--慶昌ロ
|田安家
+--宗武---治察==斉匡---+--斉位イ
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| +--慶寿ハ
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| +--●慶永(越前福井藩)
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| +--慶頼
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| +--家斉
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| +--斉匡
|一橋家 | イ ロ ハ
+--宗尹---治済---+--斉敦---斉礼==斉位==慶昌==慶寿
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+---紀姫(蓮性院)
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細川斉茲---斉樹==斉護---+--韶邦・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・護煕
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+--勇姫
越前福井藩 |
松平斉善==●慶永(春嶽)
(家斉24男)
熊本市との友好都市の関係にある福井市は、その関係を 「天保11年(1840年)、熊本藩主・細川斉護の三女勇姫が、福井藩主・松平春嶽のもとに輿入れ、また、安政4年(1858年)には、熊本藩士・横井小楠が春嶽に招かれ、藩政改革を指導した。」 と解説する。春嶽や小楠の開明的な考えは、保守王国熊本では受け入れられず、維新の歩みだしは二歩も三歩も遅れてしまった。
徳川宗家現当主恒孝氏と、細川家当主護煕氏は義従兄弟の関係にある。(護煕氏の父・護貞氏の妹・寺島雅子のお嬢さんが恒孝氏ご令室)