津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

細川氏動向--兼見卿記から(1)

2008-06-15 16:05:09 | 歴史
兼見卿記に細川氏に関する記述が初見されるのは、元亀二年(1572)正月の項である。
「細兵」と表記あるのが、細川兵部大輔即ち細川藤孝である。

元亀二年(1572)       38歳  10歳  9歳
■正月六日:細兵親子三人(藤孝・忠興・興元)、松井(康之)、観世与左衛門尉来了
■二月九日:向細兵、皈城勝龍寺也、直ニ罷下、於路地云(略)
■二月十七日:(略)細兵・三太(三淵藤英)・家君(兼右)御出也
■三月十五日:於細兵各有舞曲、家君・予罷向了、十番過歸了
■十一月廿八日:(略)細兵・三太・明十(明智光秀)来、今般之御下向無用也
  *「毛利輝元が厳島神社正遷宮のため、吉田兼右に下向を請う」た事に対し
元亀三年(1573)
■閏正月十日:向細兵、及晩各相談了
■閏正月十三日:休齋(細川孝之)屋敷東堀之普請申付了
  *孝之の生まれは天正十三年であり、休齋を孝之とするのは、明らかな間違いである。
■閏正月廿九日:向三太、細兵各参會了
■二月九日:細川兵部大輔女房衆以書状申来云、三月可参宮、依其年不参宮、又廿六歳者不参宮云々、如何、且以無正説事也、何時モ不苦、忌重軽服神事之儀肝要之由返事
   (近日天変ヒカリ物、御殿之邊飛散云々)・・彗星カ
■三月五日:向細兵
■三月廿七日:信長屋敷之築地、三太・細兵自今日普請云々
■四月十六日:至河州表出陣、佐久間(信盛)・芝田(柴田勝家)・明智(光秀)・細兵(細川藤孝)・三太(三淵藤英)・池田(勝正)・伊丹(親興)・和田(惟長)、貮萬計在云々
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