兼見卿記では、兼見や幽齋の好々爺ぶりを覗う事ができる。
「みつ」と「たつ」という二人の孫女がある。「みつ」は後、阿野中納言家に嫁いでいる。船橋秀相の室が「たつ」であろうか。文禄二年十二月秀吉は諸大名に屋敷普請を申し付けており、幽齋もその為に度々出京している。その折兼見邸や、女婿侍従(兼治)邸に孫女の為に沢山の土産を持参し訪問、皆が打ち揃って食事をしたりしている。時には幽齋女房衆(麝香)も一緒の事がある。自由な往来があった。
吉田兼倶---+--兼政---+--兼満===+--兼右---+--兼見---兼治
| ↑ | |
+--● | +--梵舜 |
| | |----※
+--宣賢---+--兼右・・・・・・・・・・* |
| |
+--智慶院------幽齋-------------伊也
※ -----+---兼英 兼治家督
+---萩原右衛門督兼従
+---愛宕山福壽印住持幸賢法印
+---長束大蔵正家男・半左衛門室
| (細川家臣田中氏祖)
|
| 阿野中納言実顕 キントミ キンナリ
| |----------公福==公業---実藤(生母・木下勝俊女)
+--------ミツ (公業は公福弟)
|
+---船橋従二位秀相室---相賢==経賢
+---小笠原備前長元室・たま(細川家臣)
| 迦羅奢夫人殉死少斎嫡子
+---清田石見室(細川家臣)
文禄四年十二月三十日「みつ」は阿野家に輿入れする。十二月十九日「孫四人、青女(兼見夫人カ)侍従」らが打ち揃って、「大仏、三十三間(堂)、清水寺」等を「遊覧」、長楽寺で休憩、婚礼の諸道具を見立てて後、「知恩院已下見物」している。翌日は「青女出京、今度祝儀之調也」と忙しい。廿四日には阿野家に「祝儀八木五十石持遣之」、廿八日には長櫃・唐櫃などを運び入れている。雨が降っていたが運び込む「申刻青天仕合大慶/\」と大喜び、廿九日三日祝儀、三十日の記録「家中弥繁栄、安堵、殊孫女祝儀成就、千秋万歳、多幸〃〃」と結んでいる。兼見卿御歳六十一歳である。