津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

地震

2008-06-14 17:42:18 | 徒然
 又宮城で大きな地震が発生、山崩れ現場のすさまじい映像に息を飲みました。被災された皆様にお見舞いを申上げます。実は熊本でも16:19、16:21の二回に渡り震度1の地震が有り、TVの画面を見ながら思わず身構えてしまいました。九州は数億年後には上下二つに分かれると言われるほど、でっかい活断層が熊本を真横に走っていますから、人事とは思えないのです。その真中にある阿蘇山は有史大爆発し、その灰を北海道まで降らせたといいますから、並では有りません。阿蘇の巨大なカルデラはその名残です。中国の大地震など地球の小さな「咳払い」なのかもしれませんが、驚きますねー。こうなると神様仏様に祈る事しか無いようです。日頃無信心のこの私ですから、とてもお聞き入れにはなら無いでしょうが・・・
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

細川伊也・再嫁

2008-06-14 16:37:24 | 歴史
 細川家記は「伊也」について、次のように記している。
「女子・伊也(一ニ也伊)吉田左兵衛督卜部兼治室 永禄十一年(1568)戌辰生レ・月日不明・初メ一色左兵衛督義有ニ嫁ス、義有亡キ後更ニ吉田左兵衛侍従卜部兼治(身上千石)ニ嫁ス、幸朝(又幸能、愛宕山下坊福壽院住持、妙庵幸賀弟子ナリ、僧正)ノ母ナリ 慶安四年(1651)辛卯二月廿四日洛外吉田山中神龍院ニテ卒去ス、年八十四、法号浄勝院雄誉英光」

 忠興が妹婿・一色義有を謀殺したのは天正十年(1582)九月八日、忠興は20歳である。忠興は永禄六年(1563)の生まれ、妹・移也は五ツ違いである。綿孝輯録の第二巻(藤孝公p139)には、(天正九年)「五月、藤孝君御女伊也一色義有に嫁せられ候」(p139)そして「十二月朔日義有男子出生、五郎と名付らる」(p142)とある。僅か一歳の愛し子五郎は、伊也から引き離され愛宕山福壽院へとやられ、二十五歳で亡くなっている。

 兼見卿記にその後の伊也の消息は詳しい。
天正十年十一月廿七日という義有謀殺から僅かの時期に、伊也の縁談が持ち上がる。
「丹後長兵(藤孝)へ差下飛脚与三太郎、侍従(兼治)縁之也」幽齋のもとへの使者が十二月三日に帰り「祝義之事延引、来正月也」とある。十三日藤孝・忠興父子は、秀吉の長濱(柴田勝家)攻めに出陣。年が明けて正月廿六日「當月中丹後長岡兵部大輔(藤孝)息女、侍従為縁邊上洛之由・・」とあるが、三十日には「自丹後未上洛、如何不審了」と伊也が未だ上洛せぬ事に首をかしげている。そんな時期二人の為の普請も出来上がった。五日の日記には大雪の為に上洛が延引、この月が閏月であるから上洛を来月にするという。三月一日、いよいよ輿入れの荷物が到来、廿三日伊也上洛の為出立の報せが入り、廿八日夜祝言が執り行われた。

 時は秀吉と柴田勝家の決戦が始まる直前である。

 天正十二年三月六日、伊也は女子を出産、四月八日伊也は兼見宅を訪問社参の後、兼見が「御満(オミツ)」と名づけている。侍従兼治の幼名が満千代で有った事による。幽齋の伊也に対する心遣いが隋所に伺える。先夫・一色義有謀殺事件からわずか二年後のことである。伊也十七歳。多くの子供に恵まれ、長生きした事は先に記した。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

阿呆の仕業 taspo

2008-06-14 15:05:23 | 些事奏論
 
                街中に むなしきタバコ販売機

 全国たばこ販売協同組合連合会とか、社団法人日本たばこ協会とか・・・「どうなってますの」といいたい。未成年者に対するたばこ販売を規制する為に考え出された事だろうが、ひとりコンビニを利する仕儀と相成った。自分で自分の首をしめた形だ。報道によると、成年の識別を運転免許証でやるシステムもあると聞くが、個人経営者を見殺しにする上部機構というのは、なんともお粗末の極みである。私はタバコを吸わないから、どうでもいいけど・・これは「阿呆の仕業」だな
  
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする