細川家十二代斎護公の姫君だが、越前松平家の春嶽公夫人と言ったほうが、分かりやすいかも知れない。「いさひめ」と読む。天保五年七月十四日龍口邸にて生まれる。同十六年松平越前守へ縁組、その後疱瘡に罹ったため、細川家より婚約解消の申し入れが成されたが、越前福井藩はこれに応ぜず、嘉永三年三月に輿入れしている。
越前福井・松平家といえば、家康の二男結城秀康を家祖とする名家である。
春嶽は天保八年前藩主斉善(19歳)の死去に伴い、十六代当主となった。当時福井藩は大変な財政難であり、藩士の禄高半減を行っている。初入国は六年後の天保十四年、そして嘉永三年の「勇姫輿入」の慶事である。安政四年春嶽は肥後細川藩士・横井平四郎(小楠)の招聘に動く。細川藩の抵抗があったが翌年小楠は福井に赴く。当然勇姫の助言があったろう事は想像できる。「国是三策」を呈して福井藩改革を指導した。小楠はいわゆる「士道忘却事件」で帰国するが、春嶽は小楠の為に経済的支援を行うほど、その力量を大きく評価している。春嶽をして「幕末の四賢公」の一人とするが、勇姫がおり小楠がこれを支えた。熊本市と福井市の友好都市締結の所以である。
春嶽は明治23年(1890)没・62歳、勇姫は明治20年(1887)没・54歳。仲睦まじい夫婦であったと伝えられる。
越前福井・松平家といえば、家康の二男結城秀康を家祖とする名家である。
春嶽は天保八年前藩主斉善(19歳)の死去に伴い、十六代当主となった。当時福井藩は大変な財政難であり、藩士の禄高半減を行っている。初入国は六年後の天保十四年、そして嘉永三年の「勇姫輿入」の慶事である。安政四年春嶽は肥後細川藩士・横井平四郎(小楠)の招聘に動く。細川藩の抵抗があったが翌年小楠は福井に赴く。当然勇姫の助言があったろう事は想像できる。「国是三策」を呈して福井藩改革を指導した。小楠はいわゆる「士道忘却事件」で帰国するが、春嶽は小楠の為に経済的支援を行うほど、その力量を大きく評価している。春嶽をして「幕末の四賢公」の一人とするが、勇姫がおり小楠がこれを支えた。熊本市と福井市の友好都市締結の所以である。
春嶽は明治23年(1890)没・62歳、勇姫は明治20年(1887)没・54歳。仲睦まじい夫婦であったと伝えられる。