津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

細川家家臣・槙嶋云庵のこと

2008-06-24 19:49:19 | 歴史
 槙嶋玄蕃頭昭光は云庵と号す。雲庵と記するものがあるが「うんあん」と読むのであろう。言庵とするものがあるが「云」が「言」に変じたものであろう。

 綿孝輯録巻二は、玄蕃頭昭光を次のように紹介している。
「将軍家執権職・宇治槙嶋城主、天正元年七月将軍義昭公、信長との和順破れ、宇治槙嶋城に楯籠給う 玄蕃頭昭光、後秀吉、秀頼につかへ大阪にても無二の士なり、虚名を蒙り候へとも無程御赦免有之、大阪落城已後忍て豊前に来候間、忠興公より家康公に御断有て無役の知行千石被下、剃髪の名言庵と云」

 槙嶋家記は、「槙嶋玄蕃頭儀、幽齋様・三齋様御懇意被思召上候訳は、幽齋様、公方義昭公江御奉公被遊候時分、玄蕃頭ハ将軍家執権職を勤め、義昭公今出川の館を修造有し砌、幽齋様御家人と上野清信か家人を争論の事あり、其後清信右之儀を鬱憤に含ミ、幽齋様御逆心有之旨を讒す、義昭公御信用あり、依而玄蕃頭、幽齋様御逆心無之旨を諫、いかれ共讒口猶不止と云々、京乱之節幽齋様御家人屏裡にて旗を振、敵を招き御逆心と見申由、横目言上す此横目を清信共云、其節玄蕃頭、義昭公御前に居申候て、幽齋様兼而之御忠誠何事に依て只今御別心可被遊哉と申上、玄蕃頭直に攻口に参、御様子見届、御別心無御座むねを言上す、其節幽齋様急難御遁れ被遊候よし、右体の訳を三齋様委御存知被成、玄蕃頭儀到て御懇意被仰付候、右義昭公御逝去已後太閤様・秀頼公江御奉公仕候、秀頼公御生害以後、正覚院と申寺中に浪人仕居申候を、三齋様・加藤左馬介殿御両名にて権現様江御免之儀御願被遊、正覚院江三齋様直ニ御出被遊、御国江被召寄候旨申伝候、右上野清信其後逆心仕、義昭公より御征伐被仰付、郡大和守・槙嶋玄蕃頭両人ニ而討果申候と云々」
                      
 又、最期の将軍義昭が慶長二年八月廿八日に薨じたさい、「秀吉公より、其旧臣槙嶋玄蕃頭昭光に命し、等持院の御葬送」と、綿孝輯録巻五は記す。

 大日本近世史料・細川家史料(10-462)には、「三齋槙嶋昭光女ト氏家元高トノ婚姻ヲ望ム」という、寛永八年十月二日書状案がある。
「云庵息女、氏家志摩へ被遣度、両方へ被成御尋候處、いつれも同心被仕候由、一段似相たる儀にて候間、被仰出御尤奉存候事」三齋の暖かい思いやりが伺える。

 我が先祖は、そんな槙嶋云庵や清田石見の推挙により、豊前に召出された。
          
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米田家分家のこと

2008-06-24 14:09:22 | 歴史

 代々家老米田家の略系図を示すと次の如くである。

         細川忠利---+--光尚
                 |
                 +--長岡元知---是庸
                             ↓
 橘求政---+--是政----是季----是長---是庸--(本家)
        | 藤十郎・与右衛門
        +--貞正----+--貞之(左兵衛)--→(藤十郎家)
                 |
                 +--貞友(甚左衛門)--→(甚左衛門家)

 元亀元年十一月廿三日、藤孝は米田求政の妻の安産祈願の祈祷の為に求政宅に入っている。求政の継室は藤孝養女(北畠左衛門教正と麝香・妹の息女)である。翌元亀二年青龍寺城中で誕生、藤十郎と名づけられ幼年の間はお側で育てられたという。天正十二年八月には病となり、本復祈願の為祈祷・百韻連歌興行が丹後国橋立文殊堂で行われるなど、藤孝の愛育振りが伺える。成長の後は知行五百石、村上八郎左衛門とともに奉行、その後忠利の元で御家老列、のち「御意に違候儀有之」て知行召し上げとなった。

 寛永六年五月六日「日帳」(福岡県史・近世資料編 細川小倉藩・二)には次のようにある。
    米田與右衛門尉殿より、吉田縫殿を以被仰越候ハ、私知行被召上候、
    左様ニ御座候へハ私家を上ケ申度候間、御年寄衆談合仕、請取候様
    ニとの儀候、篠崎(規矩郡)三ノ丸辺にて候ハヽ、か様ニハ申上間敷候
    へ共、御本丸同前之やしきにて候間、上申度と存候との事也、兵庫
    (田中氏次)返事申候ハ、修理ハましをたへられ、登城被仕筈候、上り
    被申次第、其通可申候、先心得申候と申候事

 忠利の「御意ニ違候」理由は
    小倉大橋御普請之儀、林弥五右衛門被仰付置候所、人足出し候様ニと
    の儀を弥五右衛門より与右衛門に申候由、然処御印を以不被仰出にハ
    人足出し申間敷旨、兼て被仰付置候二付、その段申聞、人足出し不申
    候、忠利君御帰国之上、大橋御普請遅滞之儀を被仰出候得は、弥五右
    衛門右之訳を委細に不申上、与右衛門人足を出し不申故、御普請出来
    不申と申上候ニ付、御機嫌損し、御役被差除、御知行も被召上候と云々

 つまりは、ぬれ衣を蒙ったわけだが、本家の是季(甥)の元で剃髪宗伯と改めた。三年後62歳で亡くなった。左兵衛、甚左衛門兄弟は部屋住みの内に夫々弐百石で召し出されている。

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