綿孝輯録巻二は、玄蕃頭昭光を次のように紹介している。
「将軍家執権職・宇治槙嶋城主、天正元年七月将軍義昭公、信長との和順破れ、宇治槙嶋城に楯籠給う 玄蕃頭昭光、後秀吉、秀頼につかへ大阪にても無二の士なり、虚名を蒙り候へとも無程御赦免有之、大阪落城已後忍て豊前に来候間、忠興公より家康公に御断有て無役の知行千石被下、剃髪の名言庵と云」
槙嶋家記は、「槙嶋玄蕃頭儀、幽齋様・三齋様御懇意被思召上候訳は、幽齋様、公方義昭公江御奉公被遊候時分、玄蕃頭ハ将軍家執権職を勤め、義昭公今出川の館を修造有し砌、幽齋様御家人と上野清信か家人を争論の事あり、其後清信右之儀を鬱憤に含ミ、幽齋様御逆心有之旨を讒す、義昭公御信用あり、依而玄蕃頭、幽齋様御逆心無之旨を諫、いかれ共讒口猶不止と云々、京乱之節幽齋様御家人屏裡にて旗を振、敵を招き御逆心と見申由、横目言上す此横目を清信共云、其節玄蕃頭、義昭公御前に居申候て、幽齋様兼而之御忠誠何事に依て只今御別心可被遊哉と申上、玄蕃頭直に攻口に参、御様子見届、御別心無御座むねを言上す、其節幽齋様急難御遁れ被遊候よし、右体の訳を三齋様委御存知被成、玄蕃頭儀到て御懇意被仰付候、右義昭公御逝去已後太閤様・秀頼公江御奉公仕候、秀頼公御生害以後、正覚院と申寺中に浪人仕居申候を、三齋様・加藤左馬介殿御両名にて権現様江御免之儀御願被遊、正覚院江三齋様直ニ御出被遊、御国江被召寄候旨申伝候、右上野清信其後逆心仕、義昭公より御征伐被仰付、郡大和守・槙嶋玄蕃頭両人ニ而討果申候と云々」
又、最期の将軍義昭が慶長二年八月廿八日に薨じたさい、「秀吉公より、其旧臣槙嶋玄蕃頭昭光に命し、等持院の御葬送」と、綿孝輯録巻五は記す。
大日本近世史料・細川家史料(10-462)には、「三齋槙嶋昭光女ト氏家元高トノ婚姻ヲ望ム」という、寛永八年十月二日書状案がある。
「云庵息女、氏家志摩へ被遣度、両方へ被成御尋候處、いつれも同心被仕候由、一段似相たる儀にて候間、被仰出御尤奉存候事」三齋の暖かい思いやりが伺える。
我が先祖は、そんな槙嶋云庵や清田石見の推挙により、豊前に召出された。