「於豊前小倉御侍帳」に「内藤喜兵衛 江戸江相詰衆 百石」という記載がある。その後の侍帳には一切その名前が見えない。
「福岡県史・近世資料編--細川小倉藩(一)」の、寛永四年二月の「日帳」に喜兵衛に関する幾つかの記述が見える。
■二月廿六日:内藤喜兵衛今月十七日ニ病死被仕候由、福田権兵衛登城ニ而、被申候事
■二月廿七日:式部(松井興長)殿より、山本源大夫御使ニ被遣候様子ハ、内藤喜兵衛儀病死仕候、就夫、喜兵衛女房ノおいを養子ニ仕置候通、古傍輩衆ニ当書物仕置候、かのものヽ儀、式部殿も終ニ不被成御覧候、勿論御目見えも不仕由候、左候ハヽ跡式ノ儀如何可可有御座候哉と候て福田権兵衛右ノ書物を被持来候ニ付、源大夫を付被遣候、式部殿思召候ハ、直子さへ、御目見えを仕候ハねハ如何ニ候処ニ、其上養■子、殊ニ女房ノおいニ而候間、中々 殿様へ申上儀ニて有之間敷と被思召候、併、か様ノ衆も立 御耳、御ふち方等成共被遣たる儀も候ハヽ、其分ニ御さた尤ニ候、無左候ハヽ、早々不成候由、権兵衛ニ可被仰聞候、重而式部殿へ不及御尋候、又麦作等大分知行所ニ仕置由候、是ハ被遣ニ而可有之候哉、是も被召上ニ而候ハん哉、とニもかくニも、か様ノ埒を明申様ニと候、此方より申候ハ、只今(浅山)修理めしたべニ参候間、登城被仕次第、談合仕、権兵衛方へ可申渡候由申候、又知行所ノ儀ハ時分柄ノ儀ニ候間、御代官衆へ可引渡由、御使ニ候事、何も得其意申由、御返事申候事
右ノ喜兵衛知行ノ儀ニ候間、可被請取由、粟(栗)野伝助ニ申渡候、又作付候麦ハ妻子ニ遣可申ニ、伝助なと談合相究申候、又養子ノ事ハ直子ニても、今迄御礼不被申上衆ハ、申上候儀不相成候間、可被得其意由、福田権兵衛ニ申渡候、又喜兵衛小倉ノ家ハ上ヶ可被申候、在郷ニ被立候家ハ、女房ニ被遣ニ而可有之ニ、相談究申候事
その後この件に関する記述は見えない。跡式は認められず、屋敷は取り上げられ在郷に引っ込む事になる。「御目見」がなされていたら、少しは状況が変わっていたのかもしれない。「江戸江相詰衆」であった喜兵衛は、忠利の覚えも目出度き人で有ったのではないか。それでも「定」は現実的で冷酷である。
「福岡県史・近世資料編--細川小倉藩(一)」の、寛永四年二月の「日帳」に喜兵衛に関する幾つかの記述が見える。
■二月廿六日:内藤喜兵衛今月十七日ニ病死被仕候由、福田権兵衛登城ニ而、被申候事
■二月廿七日:式部(松井興長)殿より、山本源大夫御使ニ被遣候様子ハ、内藤喜兵衛儀病死仕候、就夫、喜兵衛女房ノおいを養子ニ仕置候通、古傍輩衆ニ当書物仕置候、かのものヽ儀、式部殿も終ニ不被成御覧候、勿論御目見えも不仕由候、左候ハヽ跡式ノ儀如何可可有御座候哉と候て福田権兵衛右ノ書物を被持来候ニ付、源大夫を付被遣候、式部殿思召候ハ、直子さへ、御目見えを仕候ハねハ如何ニ候処ニ、其上養■子、殊ニ女房ノおいニ而候間、中々 殿様へ申上儀ニて有之間敷と被思召候、併、か様ノ衆も立 御耳、御ふち方等成共被遣たる儀も候ハヽ、其分ニ御さた尤ニ候、無左候ハヽ、早々不成候由、権兵衛ニ可被仰聞候、重而式部殿へ不及御尋候、又麦作等大分知行所ニ仕置由候、是ハ被遣ニ而可有之候哉、是も被召上ニ而候ハん哉、とニもかくニも、か様ノ埒を明申様ニと候、此方より申候ハ、只今(浅山)修理めしたべニ参候間、登城被仕次第、談合仕、権兵衛方へ可申渡候由申候、又知行所ノ儀ハ時分柄ノ儀ニ候間、御代官衆へ可引渡由、御使ニ候事、何も得其意申由、御返事申候事
右ノ喜兵衛知行ノ儀ニ候間、可被請取由、粟(栗)野伝助ニ申渡候、又作付候麦ハ妻子ニ遣可申ニ、伝助なと談合相究申候、又養子ノ事ハ直子ニても、今迄御礼不被申上衆ハ、申上候儀不相成候間、可被得其意由、福田権兵衛ニ申渡候、又喜兵衛小倉ノ家ハ上ヶ可被申候、在郷ニ被立候家ハ、女房ニ被遣ニ而可有之ニ、相談究申候事
その後この件に関する記述は見えない。跡式は認められず、屋敷は取り上げられ在郷に引っ込む事になる。「御目見」がなされていたら、少しは状況が変わっていたのかもしれない。「江戸江相詰衆」であった喜兵衛は、忠利の覚えも目出度き人で有ったのではないか。それでも「定」は現実的で冷酷である。