津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

細川家家臣・細田氏(荒木氏)

2008-08-04 13:31:20 | 歴史
 織田信長に抗し妻子や家臣等の多くを虐殺されながらも生き続け、後に利休十哲(七哲は間違い)の一人とされた荒木村重(道薫)の遺児の子孫である。
            ja.wikipedia.org/wiki/荒木村重
 遺児についてはその幾人かが、家臣や乳母などの手により命を永らえている。
著名な人としては、岩佐又兵衛(江戸初期の絵師)などもその一人とされる。
            ja.wikipedia.org/wiki/岩佐又兵衛

 ■荒木十次郎という村重の息が在ったらしい。その子が荒木七蔵(左馬助)である。自分の意に反して不幸な事件に遭遇し不遇の人生を送った。綿孝輯録は次のように紹介する。
 
 荒木左馬助ハ攝津守村重の孫ニて、父ハ新五郎と申候、左馬助幼少にて親ニ離れ、浅野但馬守殿江罷在候へ共、御直参を願ニ而京都に居住、烏丸光広卿前廉村重と御入魂の訳を以江戸に被召連、光尚君へ被仰談候、則忠利君より被仰立、公儀江被召出候、其比御城女中あらきと申人子無之ゆへ左馬助を養子可仕旨上意有之、親類ニ而も無之候へとも上意ゆへ親子のむすひいたし候、然処右之女中故有て今度流罪被仰付候間、左馬助も其儘被差置かたく御預ニ成、後熊本ニて果候

  (寛永廿一年)五月十日御老中より之奉書)
 一筆申入候、荒木左馬助事、母不届有之付、其方へ被成御預候間、其国可被指置候、扶持方等之儀委細留守居之者迄可相達候、恐々謹言
     五月十日               阿部対馬守
                          阿部豊後守
   細川肥後守殿              松平伊豆守
                     (綿考輯録・巻六十一)

 その子孫が細田氏を名乗り細川家に仕えた。
初代は細田政之允、御使番 堀次郎左衛門組 二百石 (御侍帳・元禄五年比カ)
                 細川綱利公御書出(元禄四年)二百石
また雑撰録-巻3に、「細田系図」「荒木略記同系図」等が残されている。

 【参考】細川家家臣・荒木善兵衛も荒木攝津守村重の子である。「天正七年、村重有岡城没落之砌、幼稚ニ有之候を密に忠興君に被預置候由、成長の上無役の御知行三百石被下、中島備中と両人高守城御城代被仰付候処、備中は御光様御供ニ而当春江戸二被差越、善兵衛一人にて相勤居候を、今度幽斎君御下知を以高守を引払ひ、田辺二罷越候豊前にては門司の城ニ被差置、於彼地病死」(綿考輯録・巻五)
   留守居組 筑城上毛郡奉行 丹後 島組弐百石 (於豊前小倉御侍帳)とある。


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