中津にあった頃の、三齋の江戸から帰国の船旅は、豊後の竹田津に入っている。地図を眺めていて、周防の地が余りに近い事にびっくりしてしまった。
当家の先祖磯部浄雲は毛利元就に仕えていたが、牢人して周防国下松に居住した。海岸辺りであったらしく、「三齋様豊前より江戸御上下被遊候時分」幾度か立ち寄られたという。槙嶋云庵・清田石見の斡旋で、磯部長五郎(長八郎)・庄左衛門兄弟が豊前に召し出された。先に「福岡県史・近世資料編--細川小倉藩(三)」の元和九年閏八月七日の「御用覚書之帳」に、「磯部長八郎(知行高弐百石)此地罷越居候儀 此中不存候而 何も御小々性衆御目見ニ被罷出候せんさくニ付 しれ申候事」とあるのを見つけ出した。兄弟二人して、御児小姓で召出されたと先祖附は記している。兄・長五郎は忠利に仕え、弟・庄左衛門(我が家の祖)は三齋に仕えた。
地図を見ると周防灘を挟んで、竹田津の北に周防・下松がある。まさに最短距離で瀬戸の海を横断する事ができる。現在九州中国を結ぶスオーナダフェリーは、下松の隣・徳山から竹田津を結んでいるが、この航路は48キロを2時間で結んでいる。ほぼ同様のルートであったろうか。はたしてどのくらいの時間が掛かったのか、史料で窺がうことは出来ない。
このスオーナダフェリーにのって、父祖の地を訪れてみたいと今強く思っている。
当家の先祖磯部浄雲は毛利元就に仕えていたが、牢人して周防国下松に居住した。海岸辺りであったらしく、「三齋様豊前より江戸御上下被遊候時分」幾度か立ち寄られたという。槙嶋云庵・清田石見の斡旋で、磯部長五郎(長八郎)・庄左衛門兄弟が豊前に召し出された。先に「福岡県史・近世資料編--細川小倉藩(三)」の元和九年閏八月七日の「御用覚書之帳」に、「磯部長八郎(知行高弐百石)此地罷越居候儀 此中不存候而 何も御小々性衆御目見ニ被罷出候せんさくニ付 しれ申候事」とあるのを見つけ出した。兄弟二人して、御児小姓で召出されたと先祖附は記している。兄・長五郎は忠利に仕え、弟・庄左衛門(我が家の祖)は三齋に仕えた。
地図を見ると周防灘を挟んで、竹田津の北に周防・下松がある。まさに最短距離で瀬戸の海を横断する事ができる。現在九州中国を結ぶスオーナダフェリーは、下松の隣・徳山から竹田津を結んでいるが、この航路は48キロを2時間で結んでいる。ほぼ同様のルートであったろうか。はたしてどのくらいの時間が掛かったのか、史料で窺がうことは出来ない。
このスオーナダフェリーにのって、父祖の地を訪れてみたいと今強く思っている。