津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

豊後竹田津←→周防下松

2008-08-26 13:40:15 | 歴史
 中津にあった頃の、三齋の江戸から帰国の船旅は、豊後の竹田津に入っている。地図を眺めていて、周防の地が余りに近い事にびっくりしてしまった。

 当家の先祖磯部浄雲は毛利元就に仕えていたが、牢人して周防国下松に居住した。海岸辺りであったらしく、「三齋様豊前より江戸御上下被遊候時分」幾度か立ち寄られたという。槙嶋云庵・清田石見の斡旋で、磯部長五郎(長八郎)・庄左衛門兄弟が豊前に召し出された。先に「福岡県史・近世資料編--細川小倉藩(三)」の元和九年閏八月七日の「御用覚書之帳」に、「磯部長八郎(知行高弐百石)此地罷越居候儀 此中不存候而 何も御小々性衆御目見ニ被罷出候せんさくニ付 しれ申候事」とあるのを見つけ出した。兄弟二人して、御児小姓で召出されたと先祖附は記している。兄・長五郎は忠利に仕え、弟・庄左衛門(我が家の祖)は三齋に仕えた。
 
 地図を見ると周防灘を挟んで、竹田津の北に周防・下松がある。まさに最短距離で瀬戸の海を横断する事ができる。現在九州中国を結ぶスオーナダフェリーは、下松の隣・徳山から竹田津を結んでいるが、この航路は48キロを2時間で結んでいる。ほぼ同様のルートであったろうか。はたしてどのくらいの時間が掛かったのか、史料で窺がうことは出来ない。

 このスオーナダフェリーにのって、父祖の地を訪れてみたいと今強く思っている。

 

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田邊城籠城衆、宮村出雲消息

2008-08-26 10:25:53 | 歴史
 細川幽齋の田邊城籠城について、「田邊御籠城記」「北村甚太郎覚書」「宮村出雲覚書」などが残されているが、この著者が北村甚太郎のちの宮村出雲である。砲術に巧みであった為、父・石見、弟・勘三郎と共に召し出されて籠城して活躍した。細川中務(孝之・休斎)附となり、豊前では御鉄炮弐拾挺頭(150石)を勤めたが、中務の退身に伴い牢人鉄炮細工人となった。肥後入りにお供承應元年十月病死した。

 寛永元年八月九日・廿九日の「日帳」の記録は、宮村出雲の消息として貴重である。

「九日:拾丁ノ御舟銅筒、昨日ためし候由ニ田、與次兵衛・三上宗於・安場(仁右衛門)、御横目田辺作介、かち両人とも登城仕候、(宮村)出雲鉄炮ハ、よけいノ鉄炮共ニ、六丁之内弐丁ハさけ候て、おれ申候、壱丁ハ火さらのきわニうめかね御座候而、ぬけ申候、弐丁ハ何もきす御座候而、やくニ立申不申候、残而壱丁御用ニ立申鉄炮御座候、弥右衛門鉄炮五丁之内壱丁おれ申候、壱丁ハ火さらきわニ少きす御座候て、けむりふき出候、残而三丁ハ少しきす御座なく候、御用ニ立申候、右之鉄炮とも、薬ハ廿匁四分宛、出雲■炮ハ拾九匁六分玉、弥右衛門筒ハ拾九匁七分玉ニ而御座候」

 弥右衛門製の鉄炮は五丁の内三丁が合格したが、出雲の鉄炮は六丁の内一丁と残念な出来である。

「廿九日:御鉄炮屋出雲登城、御舟筒はり直シ申候ニ付、御鉄炮之かつかう最(旧字)前ノことくニ可仕哉と、(安場)仁左衛門ニ尋申候へハ、御奉行衆ニ相尋候へと被申候、いかヽ可仕哉と申候、御奉行衆被申様ニ、仁左衛門きこへさる申分、中々さたかきりニ候而、此御鉄炮之儀ニ付、両度ませくさし(ママ)申候、昨日仁左衛門・(三上)宗於ニ申渡候間、其通二可仕之候由、拙者式も右同前ニ存候事」

 その後の消息も追ってみたい。

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