津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

ひるがお

2008-08-25 17:35:22 | 徒然
 歩いて二分の処にあった、スーパーマーケットが店終いしてから半年ほどたった。お隣に冷蔵庫があるようなもので、ビールなども買い置きする事もせず、飲みたいなと思ったらやおら出かけて、新鮮な肴とともに買ってくるという次第だ。それが出来なくなって不便をかこっている。広い駐車場があって、来客の駐車には事欠かなかった。人の出入りがないと、急に雑草が生い茂るような気がする。町内の清掃が年に数編かあるのだが、今年はこのスーパー跡の、道路ぞいの草むしりが加わってしまった。
 そんな草むしりの跡に、いま沢山の「ひるがお」が咲いている。お盆を過ぎて暑さの薄らいだこの頃、「ひるがお」も少し元気を取り戻したようだ。一蔓切って一輪挿しにさしてみたが、水揚げをせずすぐ駄目になってしまった。

 跡地利用に一向動きが見えない。改悪建築基準法のせいかもしれない。
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細川家家臣・永良氏

2008-08-25 16:36:02 | 歴史
 二百石・永良壬生彦家、同永良慶次郎家の祖は赤松攝津、先祖附によると「播州永良之庄之城主ニ而剃髪仕清圓と名を改・・」とある。遠祖は赤松孫次郎則村入道圓心である。
  
   赤松則村 ja.wikipedia.org/wiki/赤松則村
   武家家伝-赤松氏 www2.harimaya.com/sengoku/html/akamatu.html

 圓心の嫡子が信濃守範資、その子則春から八代の嫡孫が、先の「赤松攝津清圓」である。則春以降については「武家家伝」では明らかではない。清圓の子・与四郎は織田常眞(信雄)の許にあったが、丹後に於いて忠興に召し出された。
   織田信雄 ja.wikipedia.org/wiki/織田信雄

 与四郎(清兵衛・閑斎宗茂)について、綿孝輯録や於豊前小倉御侍帳は、「三斎様御附中津ニ相詰候衆」として、五百石を扶持され「俗名清兵衛、始ハ織田常真ニ奉公、播州永良城主、父ハ永良攝津守入道して清円」と記す。

 永良助之允-助左衛門(150~200石)、永良長兵衛(650石)、永良平兵衛(150石)、永良長次郎(七人扶持二十九石)なども一族であろう。又、慶次郎家には分家・奥田直人家がある。
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