中瀬氏について、2003年8月当サイトを立ち上げてから(と書き出して、まさしく偶然8/22であることに気づいた)、5年間全く気がつかなかった事に遭遇した。
中瀬左太郎という人が在る。於豊前小倉御侍帳は、「供之者・御扈従与也 百五十石」と紹介している。寛永五年七月九日の日帳に次のような記述がある事に気づいた。
「菊野伊織より、林隠岐を以被申越候ハ、中瀬左太郎殿いよ(伊予)より御下候時、下ノもの四人めしつれ被下候、十人遣せ可申旨、被仰出付、都合十人ニ而居被申候へ共、去年ハ御留守ニ被居ニ付、人もさほと入間敷存、左太郎殿ニ■見仕、四人ふちをはなし申候、然処ニ、今度片山示庵家ニ被遣候、余人ずなく候て、事かけ申候間、今弐人ほと御付候て被下候様ニと、被申越候事」とある。この書き様は左太郎なる人が只者ではない事を伺わせる。寛永五年七月十五日の日帳は「中瀬左太郎殿へ、御知行被進之候事」と「於豊前小倉御侍帳」の記載に関係するような記述をしている。
果たして何者なのかと考えながら、「新肥後細川藩侍帳」を見ていたら、かって松下氏を名乗った中瀬氏(助一郎家)の存在が目に飛び込んできた。
松下石見守 遠州久能城主
松下外記 (石見二男)
松下源太左衛門 加藤式部少輔臣
初代:助九郎・豊長(初・助九郎 後・長徳)とある。
思わず「おーつ」と声を上げてしまった。松下石見守とは、遠州久能城主(16,000石)之綱ではないか。豊臣秀吉が最初に仕えた、松下嘉兵衛である。娘は柳生宗矩夫人である。なんと言う事か、五年の間気が付かなかった。
左太郎殿の記事に遭遇しての事だが、こんな事もある。早速「先祖附」や中瀬家伝略(上妻文庫-42)を読まなければ成らない。侍帳に次ぎのサイトをリンクさせねばならない。
武家家伝-松下氏 www2.harimaya.com/sengoku/html/matusita.html
ウィキペディア・松下之綱 ja.wikipedia.org/wiki/松下之綱
興奮冷め遣らぬ66爺である。奇しくも今日はサイトをアップして丸五年、乾杯だ。
寛永六年二月十三日付け日帳は、御鉄炮衆二名が「今日江戸へ遣候事」と記し、「江戸諸方へノ音信物」を列記する。その冒頭に「一、磯部長八郎へ野田源四郎より、御硯のよしにて壱包遣候を、相渡ス」とある。能衣装、鶴五つ、三齋様御返書、御こほ殿御文、(米田)監物殿状などと共にである・・・。
磯部長八郎は当家初代庄左衛門の兄、この時期藩主忠利は江戸にある。参勤のお供であろう。
野田源四郎は、於豊前小倉御侍帳によると、「供之者・御扈従与也・四番 百五十石」とある。
同役の人であろうか。
磯部長八郎は当家初代庄左衛門の兄、この時期藩主忠利は江戸にある。参勤のお供であろう。
野田源四郎は、於豊前小倉御侍帳によると、「供之者・御扈従与也・四番 百五十石」とある。
同役の人であろうか。
武家家伝-筑紫氏 www2.harimaya.com/sengoku/html/tikusi_k.html
筑紫氏 - Wikipedia ja.wikipedia.org/wiki/筑紫氏
秀吉代島津攻めに参戦、その功により筑後上妻郡に、一万八千石の領地を安堵された筑紫氏は、慶長5年(1600年)に関ヶ原の合戦が起こると、西軍に味方し戦後の仕置で筑紫広門は改易となる。その後、加藤清正、ついで細川家の庇護を受けた。細川忠興の口添えで謝罪し、大坂の役に於いては徳川方に参加し、嫡家は旗本となった。
細川家家臣筑紫氏は、上野助広門をもって初代とするが、息・左近重門が細川忠興の弟幸隆女・兼を室として細川家に仕えた。
1代・上野助・広門
寛永五年正月二日・日録に「筑紫主水(広門)殿へ、由布院之内三千石被進之ニ付而、由布院・
横灘惣高ノ目録仕、江戸へ最前差上申候を、今日御前より被成御返候、江戸ノ段二入置申候
事」とある。
2代・左近・重門(三男 八十郎)
馬廻組四番 七百石 藤 妙慈院様御婿也(室・細川忠興弟幸隆女・兼)
(於豊前小倉御侍帳)
肥陽諸士鑑によると、3代・権左衛門治門、4代・作左衛門種門、5代・権左衛門照門とある。以下明治に至った。又二つの分家があるが、三家とも代々の名前に筑紫氏の通字「門」を戴いている。
乱世に翻弄された一族である。
筑紫氏 - Wikipedia ja.wikipedia.org/wiki/筑紫氏
秀吉代島津攻めに参戦、その功により筑後上妻郡に、一万八千石の領地を安堵された筑紫氏は、慶長5年(1600年)に関ヶ原の合戦が起こると、西軍に味方し戦後の仕置で筑紫広門は改易となる。その後、加藤清正、ついで細川家の庇護を受けた。細川忠興の口添えで謝罪し、大坂の役に於いては徳川方に参加し、嫡家は旗本となった。
細川家家臣筑紫氏は、上野助広門をもって初代とするが、息・左近重門が細川忠興の弟幸隆女・兼を室として細川家に仕えた。
1代・上野助・広門
寛永五年正月二日・日録に「筑紫主水(広門)殿へ、由布院之内三千石被進之ニ付而、由布院・
横灘惣高ノ目録仕、江戸へ最前差上申候を、今日御前より被成御返候、江戸ノ段二入置申候
事」とある。
2代・左近・重門(三男 八十郎)
馬廻組四番 七百石 藤 妙慈院様御婿也(室・細川忠興弟幸隆女・兼)
(於豊前小倉御侍帳)
肥陽諸士鑑によると、3代・権左衛門治門、4代・作左衛門種門、5代・権左衛門照門とある。以下明治に至った。又二つの分家があるが、三家とも代々の名前に筑紫氏の通字「門」を戴いている。
乱世に翻弄された一族である。