津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

Congratulations 内柴

2008-08-10 21:19:00 | 歴史
 オリンピック金メダル第一号の柔道の内柴正人は熊本の出身、嬉しさも又一入である。武道熊本の名をまた高らしめてくれた。県民こぞって「おめでとう」を申上げなければならない。まだ研究が及んでいないが、細川家家臣内柴氏との係わりがあるように思える。これを機会に、詳しく調べねばなるまい。まずはビールで乾杯と参ろう。
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素人療法・・・・の元

2008-08-10 16:35:38 | 歴史
 史料を読むと武士の素人療法や、薬草の処方などが窺がえる。お灸はともかく、鍼(はり)なども見よう見真似でやっていたらしい。次の記述などは、何とも非惨で話にならない。

 「丹後以来」の磯貝家の太左衛門は、御鉄炮三拾挺頭 三百石(於豊前小倉御侍帳)、 御添頭衆 三百石(肥後御入国宿割帳)等を勤めたが、中々の愛妻家であったようだ。
寛永五年七月廿八日・日帳に「磯貝太左衛門被申候ハ、女房衆のと(咽喉)ニ四月よりはれ物出来申候ヲ、此比はりをたて申候へハ、たてそこない、よの所ニたて、其上ふかくたて申候ゆへ、血とまり不申、相果申ニきわまり申候つる、就夫、せかれもめしつれ不罷出候、跡にて相果相果可申も不存候由、被申候事」とある。(福岡県史・近世史料編--細川小倉藩二p69)

 家禄が減じられる事も無かったようだが、素人療法がとんだ結果を招いた。
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入札

2008-08-10 15:17:56 | 歴史
 早鞆浦と呼ばれた関門海峡の門司の地の、本州側に一番近いといわれる処に「和布刈神社」がある。かっては「早鞆明神社」と呼ばれていた。
         members.jcom.home.ne.jp/eirakuan2/mo-mekari.htm

小倉藩細川家は寛永五年六月この神社の改修を行っている。六月六日の「日帳」に、「隼友(早鞆社)廻廊被成 御建候御奉行ニ、神西金右衛門尉・荒木権右衛門尉差遣候事」とある。六月廿日入札が行われた。
「隼友明神廻廊・廊下・橋懸り・ひさし・塀・同こしかけ・井かき・鳥居ノ立直・御料理間之たな、此分請切ニ申付、入札之覚
     一、米九十九石六斗  二左衛門
                    孫四郎
     一、同九十八石五斗  又兵衛
                    六左衛門
     一、同九十七石六斗  作右衛門
                    喜右衛門
     一、同九十七石     彦左衛門
                    次右衛門

 これが落札に至っていない。談合かと思われるような「札」で、上下弐石六斗の差しかない。「米の高」で入札という事も初めて知って驚いた。
 藩庁は「JV四社」に対して、「高八十石」に負けろとネゴにでる。後には「七十ニ石」まで引き下げられている。昔も今もやる事は同じだ。

 右之分ニ書上申候内を、高八十石ニまけ候へと申付内候へハ、作右衛門・喜右衛門ハ御まけ可仕と申候、内四十石只今御米、残分ハ銭を可渡と申候へにても可被下申候、又此方より申候ハ、七十石ニまけ候へと候ハヽ、御米斗可渡と申候、左様ニハいや申候、(林)弥五右衛門・(河田)八右衛門まけ候へと被申候へハ、七十二石ニ御まけ可申候間、御米斗可被下由、申候ニ付、七十二石ニ定申候、内三十五石ハたヽ今、残分ハ新米出来次第可渡と、堅約束相究候事」

 処が翌六月廿一日上記決定は覆った。
「昨日ハ大工作右衛門・喜右衛門七十二石ニ請申候へ共、彦左衛門・次右衛門と申す大工、七十一石ニせり申ニ付、七十一石ニうけさせ申由、弥五右衛門・八左衛門より被申越候、以上」
現代にも通ずる変な入札ではある。
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