寛永七年六月十日の小倉細川藩「日帳」に、興味深いたった一行の記述が有る。
「津川休閑様、今朝御下着被成候、上下五人にて御下候由也」とあり、以下関連記事が次のように続く。
十一日、「今朝、津川休閑様御本丸ニ而被成御振廻候事」
十三日、「今朝休閑様を御本丸にて被成御振舞候事」
十八日、「今日ハ殿様東御花畠ニ被成 御座、休閑様被成御振舞候事」
そして九月十二日
賄奉行、料理人遣候ハヽ、御六ケ敷可有御座候間、遣シ申間敷旨、御諚にて、遣シ不申候也
「明日、休閑様被成御上候、御料理人ハ八蔵と申もの也、御賄人ハ御鉄炮衆二人、
上奉行ニ歩之御小性赤尾茂兵衛申付候也、右分ニ申付候由、申上候へハ、賄人
奉行・料理人上せ申間敷候、御心易被思召候様ニとノ儀候、御賄を渡切可申旨、
被 仰出候也」
「明日、休閑様乗上上り候御船頭ハ、三木清大夫、ろ数廿四丁、八端帆也」
こうして、三ヶ月ばかりを豊前で過ごした休閑は、京都へと帰っていった。
この旅はどういう目的の旅であったのか大変興味深いが、詳しい史料が見当たらない。
この津川休閑は斯波武衛家・斯波左兵衛督義近の息・津川近利であり、細川家家臣となった津川辰珍の兄である。近利の孫・辰房が辰珍の養嗣子となった。家康・秀忠に仕え、致仕後剃髪して休閑と号したという。寛永十九年に歿している。
四郎右衛門・辰珍(弟・義銀二男)
(1)頭衆 千弐百五十石 「源」 (於豊前小倉御侍帳)
(2)千二百五十石 (肥後御入国宿割帳)
蒲生氏、後蜂須賀氏に依る 次で忠利代豊前に召寄られ客分・知行千石
肥後入国の際、弐百五十石加増 寛永十九年(甥)津田三十郎へ七百石分知
万治元年七月二十八日歿
(ウィキペディアの斯波義銀(義近)において、近利が細川家に仕えたとあるが、これは明らかな間違いである)
「津川休閑様、今朝御下着被成候、上下五人にて御下候由也」とあり、以下関連記事が次のように続く。
十一日、「今朝、津川休閑様御本丸ニ而被成御振廻候事」
十三日、「今朝休閑様を御本丸にて被成御振舞候事」
十八日、「今日ハ殿様東御花畠ニ被成 御座、休閑様被成御振舞候事」
そして九月十二日
賄奉行、料理人遣候ハヽ、御六ケ敷可有御座候間、遣シ申間敷旨、御諚にて、遣シ不申候也
「明日、休閑様被成御上候、御料理人ハ八蔵と申もの也、御賄人ハ御鉄炮衆二人、
上奉行ニ歩之御小性赤尾茂兵衛申付候也、右分ニ申付候由、申上候へハ、賄人
奉行・料理人上せ申間敷候、御心易被思召候様ニとノ儀候、御賄を渡切可申旨、
被 仰出候也」
「明日、休閑様乗上上り候御船頭ハ、三木清大夫、ろ数廿四丁、八端帆也」
こうして、三ヶ月ばかりを豊前で過ごした休閑は、京都へと帰っていった。
この旅はどういう目的の旅であったのか大変興味深いが、詳しい史料が見当たらない。
この津川休閑は斯波武衛家・斯波左兵衛督義近の息・津川近利であり、細川家家臣となった津川辰珍の兄である。近利の孫・辰房が辰珍の養嗣子となった。家康・秀忠に仕え、致仕後剃髪して休閑と号したという。寛永十九年に歿している。
四郎右衛門・辰珍(弟・義銀二男)
(1)頭衆 千弐百五十石 「源」 (於豊前小倉御侍帳)
(2)千二百五十石 (肥後御入国宿割帳)
蒲生氏、後蜂須賀氏に依る 次で忠利代豊前に召寄られ客分・知行千石
肥後入国の際、弐百五十石加増 寛永十九年(甥)津田三十郎へ七百石分知
万治元年七月二十八日歿
(ウィキペディアの斯波義銀(義近)において、近利が細川家に仕えたとあるが、これは明らかな間違いである)