津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

雑賀長右衛門の子

2008-08-28 13:18:19 | 歴史
 肥後細川家に二家の雑賀氏がある。共にその祖を雑賀長右衛門とする。長左衛門は寛永十五年二月二十七日の原城総攻撃で戦死した
「御印之物」と称する細川家文書(熊本大学国史研究会・史料細川家文書三)に、次のようなものがある。

「有馬ニテ討死仕牢人才賀長右衛門子大蔵ニ六人扶持方遣候間永可相渡者也
              寛永十八年九月八日 奉行中」

 ここにある才賀大蔵は、父・長右衛門が戦死した時は未だ生を受けていない。即ち母親の胎内にあった。四歳になってのこの細川家の措置は余り例を見ない。長右衛門の有馬における働きが評価されての特例といえよう。

 サイト「歴史ネットワーク・紀州雑賀孫市」 www.hinet.jp/magoichi に「雑賀鈴木一族研究会」会長・雑賀圭五氏の「肥後の雑賀氏」が紹介されていて上記事情も詳しい。

 熊本在住木庭實治氏が著された「菊池木庭城と木庭一族」には、雑賀氏に関する考察がある。奥様のお母様のご実家が雑賀氏であるという。これによると「始祖の雑賀長衛門(ママ)が島原の乱の戦闘で戦死したが、子がなかったので、殿様の細川忠利の名により上司、西郡要人の四歳の男子を養子に貰った事である。だから雑賀家は名前だけで、実際の血統は西郡氏である。ただ雑賀長衛門が戦死した時には子はなかったが妻は妊娠していた。四歳の男子が藩主の忠利に御目見したが西郡の子か雑賀の子か不明である」としておられる。
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