津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

槙嶋昭光の機転

2008-11-15 14:53:01 | 歴史
 元和元年大坂夏の陣を前にして、大坂方からは大野治長を通じて、秀頼や淀殿の味方を請う書状が度々寄せられている。ちょうどその時期、忠興の愛娘と烏丸光賢の婚礼が予定されていた。そのことを伝え聞いた大坂方は、「是を大坂江人質に取においてハ、秘蔵娘の事なれは同心なくて叶ふまし」と評議一決したという。そのことを槙嶋玄蕃昭光が知るところとなり、かねて忠興と懇意であった昭光は密かに此のことを報せたという。
「能こそ知せ候とて、御婚礼を被差延候」になったのは当然の事である。 (綿孝輯録・巻十九)

 【槙嶋玄蕃頭昭光】
■足利将軍家執権職・宇治槙嶋城主、後秀吉、秀頼につかへ大阪にても無二の士なり、虚名を蒙り候へとも無程御赦免有之、大阪落城已後忍て豊前に来候間、忠興公より家康公に御断有て無役の知行千石被下、剃髪の名言庵と云  (綿考輯録・巻二)

■慶長二年八月廿八日一二七月廿八日昌山公(足利義輝)薨、六十一歳、秀吉公より、其旧臣槙嶋玄蕃頭昭光に命し、等持院に御葬送(略)  (綿孝輯録・巻五)

 昭光はその後、三齋忠興の側を離れることなく仕えている。綿孝輯録は136歳まで生きたとしているが、菩提寺である禅定寺の過去帳によると「正保三年正月廿日・行年百十歳」であったとする。三齋歿後一月ばかり後の死である。「一空宗也居士」
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