津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

寛永五年十一月五日「覚」

2008-11-24 14:18:02 | memo
                覚
一、藤田宗里せかれ与次歳拾七ニ罷成候 御六様へ進上仕度と申上候事
一、西村半兵衛せかれ傳七歳拾八ニ罷成候 御六様へ進上仕度と申上候事
江戸へ供御印
一、小林勘右衛門二男傳三郎今度江戸御供ニ被 召連被下候様ニと申上候事
 右三人ハ 御目見え仕迄ニ而いまた御ふちかたハ不被下候如何可有御座候哉事
江戸へ可遣候御印
一、沖津弥五右衛門孫才八歳拾五ニ罷成申候江戸へよせ候て 御六様へ進上仕度と申上候事
可召出候御印
一、山村弥一右衛門せかれ兄むすこ三丞与申者歩之御小姓二被召加被下候様ニと申上候事
 右之通被得 御諚可被下候以上
    寛五
     十一月五日                   浅山修理亮判
                                田中兵庫介同
        皆川治部丞殿

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 ・藤田宗理、与次なる名前は侍帳では見かけられない
 ・西村半兵衛は(1)切米人数 廿石八人 丹後 (於豊前小倉御侍帳) 
           (2)御留守居衆 八十石八人扶持 (肥後御入国宿割帳)
           (3)二百石 (真源院様御代御侍免撫帳)
           (4)御小姓組 二百石     とある。
    二代目角左衛門が傳七か不明
 ・小林勘右衛門については綿孝輯録に詳しい。
   「忠興君丹後御在国、妙庵主愛宕山御登山之時、丹波倅勘右衛門御児小姓
    被召出候、妙庵主田辺御籠城被成候ニ付、松山権兵衛・宮村出雲、一列ニ
    被召仕候由、此節幽斎君御前江被召出、御腰物拝領、其後忠興君心操の様
    子被聞召、御知行百五拾石被下候、寛永七年十一月病死
    嫡子半三郎ニ・百五拾石、二男伝三郎ニ・百五拾石被下候、今の勘太郎、勘
    右衛門か祖なり」   (綿考輯録・巻五)
    
    傳三郎については
           (1)二番谷内蔵允組 百五十石(真源院様御代御侍名附)
           (2)百五十石 (真源院様御代御侍免撫帳)  の
      記録が残る。以降不明。
 ・沖津弥五右衛門孫才八とは、森鴎外の小説「興津弥五右衛門の遺言」の主人公・興津弥五右衛門
     才八のことである。綿孝輯録は次の様に紹介している。
    「幼名才八、はじめ右兵衛・宇右衛門。元和六年忠興に召し出され二百石。
     忠興隠居のとき中津に従い、寛永元年三月頃横田清兵衛殺害により閉門。
     島原乱に細川立孝に従い出陣、この頃弥五右衛門に改める。十六年ころよ
     り正保四年頃まで江戸聞番。細川三斎公一周忌ににあたり殉死、五十四歳」
 ・山村弥一右衛門とは、これも森鴎外の小説「阿部一族」で有名な、主人公・阿部弥一右衛門の事
     である。詳細は省略する。兄むすことは嫡男のことと考えるが、嫡男権兵衛の幼名は権十
     郎と承知していたのだが、三丞とは誰か。ご承知の方はご示教賜りたい。

   「忠利公・光尚公御印物」による「追腹の衆妻子及びに兄弟付」には次のようにある。

     ●千百石 阿部弥市右衛門尉
              右之女房
       三百石   阿部権兵衛 (900石)
       弐百石   阿部市大夫
       弐百石   阿部弥五右衛門
       弐百石   阿部五大夫
       拾人扶持  阿部左平太 (200石)
   「弥市右衛門知行之内九百石、家屋敷共ニ遣也、弐百石ハ左平太ニ遣候
    権兵衛知行ハ此方へ可請取也 印」


 
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重賢室由婦姫様

2008-11-24 11:44:02 | 歴史
    細川光尚---綱利---+==紀宣---宗孝===重賢---治年
                  |             ∥    
                  +==●          ∥
                     ∥          ∥
                  久我惟通---通名---由婦姫

 細川重賢の結婚は、寛延二年(1749)二月廿七日江戸藩邸龍口邸で執り行われた。
延享四年(1747)八月廿六日兄宗孝が不慮の死を遂げてから二年後の事である。
重賢31歳、由婦姫21歳御父君は久我大納言通兄卿である。そして綱利の曾孫娘でもある。

 宝暦の中ごろ由婦姫は眼病に罹り、失明している。二人の間に公子いまだ誕生なく、由婦姫は側室を入れられる事を薦められたという。此井(嗣子治年生母)と嘉門(節子姫生母)の二人である。藤孝は二人の側室を「お部屋様」と呼ぶことを禁じ、それぞれの名を呼ばせたという。由婦姫をおもんばかっての誠意が感じられる。
 由婦姫は寛政六年(1794)十一月廿八日に亡くなった。65歳。
「容姿ありて、琴瑟和合、春風雍容の楽しみありし」方であったと伝えられている。

           
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