寛永二十年(1643)正月十日ころ、光尚は八代に三齋を見舞っている。亡くなる三年ほど前の事だが、綿孝輯録(忠興・下 p305)に「此時長岡監物・沢村大学被召連候、此両人帰参以後初而御目見被仰付候」とある。どうやら三齋の方から「被召連候様」にとの事であったらしい。さて両人の「帰参以後初而」とはどういうことであろうか。
■長岡監物とは、米田家三代目米田興季(与七郎)のことである。慶長六年長岡の姓を賜るとともに、諱を頂戴して興季監物となった。慶長十二年監物は豊前を退去して京に奔っている。(22歳) 前年の飯河豊前・長岡肥後誅伐に関しての抗議の意味合いが考えられている。末の妹が肥後に嫁いでいた。
同十九年秀頼の招きにより大阪入城、元和八年(1622)春に息・是長(5歳)と共に帰参二千石、寛永二年加増四千五百石、家老職、寛永十一年加増三千五百石計壱万石、万治元年正月八日歿、七十三歳 殉死六人(肥後藩主要系図)
(2008年03月13日のブログでは、元和八年の帰参時の記録(熊本縣史料・近世編第二p377)「監物人数之覚」をご紹介した。共に帰参した母・女房・せかれなどの人数が記されていて面白い。)
それ以降、家老職などを勤めた監物だが、再御目見まで21年の歳月を要している。
■沢村大学については、寛永元年四月に至津村(大学知行地カ)で百姓訴訟があり、三齋が機嫌を損じたというのである。大学には係わり合いのない事のようだが、「今年か明ル寛永二年かに御家を立退、松平宮内少輔殿江参居候・・云々」と解説して有る。松平宮内とは備前の松平忠雄のことである。備前から道家某宛ての大学の手紙などもあり間違いない事実である。寛永三年(1626)九月に「帰参被仰付、先知を被返下」されているから、再御目見まで17年を要した。
熊本人の「肥後モッコス」気質というのは、三齋忠興に発していると言えば言い過ぎか・・・
■長岡監物とは、米田家三代目米田興季(与七郎)のことである。慶長六年長岡の姓を賜るとともに、諱を頂戴して興季監物となった。慶長十二年監物は豊前を退去して京に奔っている。(22歳) 前年の飯河豊前・長岡肥後誅伐に関しての抗議の意味合いが考えられている。末の妹が肥後に嫁いでいた。
同十九年秀頼の招きにより大阪入城、元和八年(1622)春に息・是長(5歳)と共に帰参二千石、寛永二年加増四千五百石、家老職、寛永十一年加増三千五百石計壱万石、万治元年正月八日歿、七十三歳 殉死六人(肥後藩主要系図)
(2008年03月13日のブログでは、元和八年の帰参時の記録(熊本縣史料・近世編第二p377)「監物人数之覚」をご紹介した。共に帰参した母・女房・せかれなどの人数が記されていて面白い。)
それ以降、家老職などを勤めた監物だが、再御目見まで21年の歳月を要している。
■沢村大学については、寛永元年四月に至津村(大学知行地カ)で百姓訴訟があり、三齋が機嫌を損じたというのである。大学には係わり合いのない事のようだが、「今年か明ル寛永二年かに御家を立退、松平宮内少輔殿江参居候・・云々」と解説して有る。松平宮内とは備前の松平忠雄のことである。備前から道家某宛ての大学の手紙などもあり間違いない事実である。寛永三年(1626)九月に「帰参被仰付、先知を被返下」されているから、再御目見まで17年を要した。
熊本人の「肥後モッコス」気質というのは、三齋忠興に発していると言えば言い過ぎか・・・