津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

清正公ゆかりの「銀杏」

2008-11-07 16:26:09 | 徒然
 今日は立冬だそうだが、あまりの暖かさで真実味がない。それでも街路樹が所々紅葉を見せている。熊本城は別名「銀杏城」とも呼ばれるが、非常時のために清正が食料確保の意味で、銀杏を沢山城内に植えた事による。熊本県庁プロムナードには肥後54万石にちなんで、54本の銀杏の木が植えられており、黄色く紅葉した頃夜にはライトアップされたりして、コンサートなどが催されたりする。一月ほど前だろうか熊本北警察署(熊本で一番でかい)前をあるいていたら、街路樹の銀杏がいっぱい見をつけている事に気づいた。ところが最近この木がすっかり枝を切られてしまって、銀杏の実どころの話ではなくなってしまった。落ち葉に困まる道路管理者(国道だから国交省だ)の仕業だろう。風情も何も有ったものではない。
 
 昨年の11月10日、熊本市産業文化会館7階大ホールで、【肥後加藤家顕彰・特別講演とシンポジウム「加藤家の謎に迫る」歴史に名を残す武家ロマン】が催された。大分の鶴崎から参加された方が、清正ゆかりの法心寺の銀杏の実を沢山お土産にお持ちくださった。折角のことなので数百人の参加者に、15~20粒ほどを紙袋にいれてお持ち帰りいただいた。私も持ち帰えり「植えれば来年は芽が出ますよ」とのお話しに、10粒ほど植えてみたのだが、今年の春一個の芽が顔を出した。現在約10センチほどの高さになって、8枚ほどの葉をつけて元気に育っている。でかくなったらどうしょうという心配もある。

 多分県庁のプロムナードは、銀杏の実を拾う人が三々五々されていることだろう。
ちょっと苦味のある焼きたての銀杏の実は、ちょっと塩をふっていただくと、もう絶品である。やっぱりお酒だろう。今年はいただけるかどうか・・・?
      
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寛永四年霜月十四日の二つの書状

2008-11-07 10:02:18 | 歴史
 全く同じ日に、三齋と忠利はお互い宛ての書状を発している。忠利は江戸、三齋は中津に在る。村上八郎左衛門死去に係わる、遺領壱万石の措置についてである。

  ■三齋宛忠利書状 (大日本近世史料-細川家史料241、綿孝輯録巻二十一・p126)
村上八郎左衛門相果申候、左様ニ御座候へハ縫殿事御名字をも被下、大坂にても御用にも立、御取立之儀ニ御座候へ共、可被遣御知行も無御座儀ニ候條、八郎左衛門知行之儀御心まゝニ被遣候て、被召仕候様ニと奉存候間得御内儀申候、役儀之儀ハ、被仰付被下候様ニと存儀ニ御座候、来年御普請前にても御座候間、只今得御意候、以上
      霜月十二日
               貴田権内殿

  ■忠利宛三齋書状 (大日本近世史料-細川家史料515、綿孝輯録巻二十一・p126)
八郎左衛門果候ニ付、河内事親取候一万石之知行我々申次次第可被遣由、先以祝着申候、乍去、我々為にハ人足ニ遣候ても侍ニ遣候ても不苦者ニ候へとも、其方事ハ心替り候間、過分之知行はや遣候事もいかゝ候ハん哉、但我々果候後ニハ、只今我々取候三万七千石之内如約束二万五千石天二遣、残ル一万二千石之内一万石分、其方頼置、河内ニ可遣と在所付まて書遣置候条、乍次而申候、如此ニも可在之候哉、とかく中津へ参、ぬしニも此懇之通申きかせ、来年御普請ノ役儀ニさゝハらさる程ニ返事可申候事
  尚々、書付今朝杉伯江参、返事延引申候、已上
      十一月十二日             三齋(御判)
          越中殿
            返事

 亡くなった八郎左衛門について、東大史料編纂所「大日本近世史料-細川家史料」の人物索引には次のようにある。  【小輔五郎、弾正、八郎左衛門。小早川隆景に仕え、父隆重の遺跡を継ぎ八千貫、備中加曽岡城主。天正四年大坂城兵粮救援の船戦に功あり、文禄二年朝鮮陣に隆景に従い戦功あり。隆景没後、慶長六年忠興に招かれて仕え、一万石。寛永四年十月朔日没。年七三】  村上水軍の能島村上氏の一族として活躍、 父隆重と共に笠岡城の城主として活動した。          
         ja.wikipedia.org/wiki/村上景広

 忠利書状の「縫殿」、三齋書状の「河内」は同一人物、八左衛門息・長岡河内(村上縫殿介)である。大坂の役で高名、綿孝輯録には「七月朔日、昨日御吟味の面々御饗応、御褒美品々被下候覚書」に一番高名の清田石見に続いて縫殿介の名がみえる。
「知行二千石御腰物三原  村上縫殿介景則後長岡河内 鑓ヲ合、高名ハ無之、疵三ヶ所(ィ二)、刀二鑓疵二ヶ所(ィ三)」
 細川家の肥後入国後三齋と共に八代に在り、家老職を勤め、三齋の死後離国した。
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