津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

一朝一夕とは参らぬ

2008-11-06 23:07:11 | 歴史
 忠興の弟・興元は慶長六年十二月中旬、父幽齋が初めて中津入りした時に豊前を出奔している。興元は「御所労之由」とて、養子・興秋(忠興二男)を名代として寄越した。忠興は不審に思い問いただす中、翌日興元「小倉御立退」の飛脚が来る。
忠興は松井佐渡と共に、興元に弐万五千石を宛行い、二人を家老とした。しかし興元は「陪臣と成事をいきとほり」出奔したとされる。筑前の黒田甲斐守長政と密に諜し合わせて、海路大坂へ逃れたとされる。細川家と黒田家の不仲の一つの原因だとされる。

        ja.wikipedia.org/wiki/細川興元
       

 綿孝輯録の編者・小野武次郎は当時の茂木藩の年寄・秋田介大夫に、興元のその後の行動について訊ねている。それによると
 ・慶長六年秋豊前御退去筑前ニ暫御滞
 ・同冬堺妙国寺武田武碩の出迎えを受同寺に逗留
          ja.wikipedia.org/wiki/妙国寺
 ・翌年(七年)春高野江御登山無量光院江五ヶ月程御在
          www.cypress.ne.jp/muryoko
 ・同夏下山、堺ニ三ヶ年程御在居
 ・其後(母)光寿院様京都小川屋敷御譲請ニ成御住居
 ・慶長十三年春、忠興君・興元主御一同に家康公御前江被為召、御直之上意ニ兄弟不和不可然候
 ・慶長十四年公儀江御出勤
 ・慶長十五年壱萬石を賜ふ

 興元豊前出奔から九年を経過している。慶長十九年大坂の役に「将軍之御馬廻」として出陣、右戦功により常州谷田部に六千三百石余御加増拝領、都合壱万六千三百石茂木・谷田部藩主となった。出奔から十三年経過している。

        ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8C%82%E6%9C%A8%E8%97%A9
        ja.wikipedia.org/wiki/谷田部藩

 
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長岡姓を賜る

2008-11-06 20:26:49 | 歴史
 細川家家臣の主だった人たちが長岡姓を賜るのは、細川家の豊前入国後慶長六年七月七日だとされている。「於中津去年岐阜・関原・木付の役ニ手ニ合候者不残御饗応、御能仰付、各戦功御感賞、倍士(陪臣)迄も功有ハ御目見被仰付候」と、「御饗応之席」が設けられた。村上八郎左衛門・薮内匠・益田蔵人らが「一座被仰付」られ、「若き面々ハ御給仕いたし候」とある。与五郎(興秋)や、「殊之外御前悪敷候」有吉与太郎(興道)らもこれに加わった。有吉与太郎の「殊之外御前悪敷候」という文言から、この時期すでに忠興女・お万との婚儀について、断っていたのだろうと推測されている。

 玄蕃殿(五千石)、松井(五千石)、有吉(三千石、五千石とも)、加々山庄右衛門(弐千石)、牧真五(弐千石)、沢村才八(千石)ら六人に無役の知行が下された。

 この折、名を改めるようにとの沙汰が在ったのは次の人々である。
・松井新太郎(興長)長岡式部少輔、父佐渡守は「世に知れたる者なれはは名を替不被遣候」
・有吉四郎右衛門を長岡武蔵守、「古の武蔵坊(弁慶)にもおとるまじ」とある
・米田与七郎を長岡監物興季
・沼田小兵衛を長岡勘解由左衛門
・篠山五左衛門を飯川豊前、息・篠山与四郎長岡肥後忠直、のち二人とも誅伐される
・加々山少右衛門を加々山隼人興長
・牧新五を牧左馬允興相         とした。
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八代市史・近世資料編索引編

2008-11-06 11:09:37 | 書籍・読書
 最近、八代市史の近世史料編の索引編が販売されている事を知った。

  www.city.yatsushiro.kumamoto.jp/ar/article_view.phtml?id=15219

【A5 209貢 3,700円】まだ購入には至っていないのだが、是非手元におきたいと思っている。

     お問い合わせ先 八代市文化課
          電話番号0965-35-2021 FAX番号
          〒866-0862  熊本県八代市松江城町4-29
          電子メール bunka@city.yatsushiro.lg.jp
コメント (1)
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