忠興の弟・興元は慶長六年十二月中旬、父幽齋が初めて中津入りした時に豊前を出奔している。興元は「御所労之由」とて、養子・興秋(忠興二男)を名代として寄越した。忠興は不審に思い問いただす中、翌日興元「小倉御立退」の飛脚が来る。
忠興は松井佐渡と共に、興元に弐万五千石を宛行い、二人を家老とした。しかし興元は「陪臣と成事をいきとほり」出奔したとされる。筑前の黒田甲斐守長政と密に諜し合わせて、海路大坂へ逃れたとされる。細川家と黒田家の不仲の一つの原因だとされる。
ja.wikipedia.org/wiki/細川興元
綿孝輯録の編者・小野武次郎は当時の茂木藩の年寄・秋田介大夫に、興元のその後の行動について訊ねている。それによると
・慶長六年秋豊前御退去筑前ニ暫御滞
・同冬堺妙国寺武田武碩の出迎えを受同寺に逗留
ja.wikipedia.org/wiki/妙国寺
・翌年(七年)春高野江御登山無量光院江五ヶ月程御在
www.cypress.ne.jp/muryoko
・同夏下山、堺ニ三ヶ年程御在居
・其後(母)光寿院様京都小川屋敷御譲請ニ成御住居
・慶長十三年春、忠興君・興元主御一同に家康公御前江被為召、御直之上意ニ兄弟不和不可然候
・慶長十四年公儀江御出勤
・慶長十五年壱萬石を賜ふ
興元豊前出奔から九年を経過している。慶長十九年大坂の役に「将軍之御馬廻」として出陣、右戦功により常州谷田部に六千三百石余御加増拝領、都合壱万六千三百石茂木・谷田部藩主となった。出奔から十三年経過している。
ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8C%82%E6%9C%A8%E8%97%A9
ja.wikipedia.org/wiki/谷田部藩
忠興は松井佐渡と共に、興元に弐万五千石を宛行い、二人を家老とした。しかし興元は「陪臣と成事をいきとほり」出奔したとされる。筑前の黒田甲斐守長政と密に諜し合わせて、海路大坂へ逃れたとされる。細川家と黒田家の不仲の一つの原因だとされる。
ja.wikipedia.org/wiki/細川興元
綿孝輯録の編者・小野武次郎は当時の茂木藩の年寄・秋田介大夫に、興元のその後の行動について訊ねている。それによると
・慶長六年秋豊前御退去筑前ニ暫御滞
・同冬堺妙国寺武田武碩の出迎えを受同寺に逗留
ja.wikipedia.org/wiki/妙国寺
・翌年(七年)春高野江御登山無量光院江五ヶ月程御在
www.cypress.ne.jp/muryoko
・同夏下山、堺ニ三ヶ年程御在居
・其後(母)光寿院様京都小川屋敷御譲請ニ成御住居
・慶長十三年春、忠興君・興元主御一同に家康公御前江被為召、御直之上意ニ兄弟不和不可然候
・慶長十四年公儀江御出勤
・慶長十五年壱萬石を賜ふ
興元豊前出奔から九年を経過している。慶長十九年大坂の役に「将軍之御馬廻」として出陣、右戦功により常州谷田部に六千三百石余御加増拝領、都合壱万六千三百石茂木・谷田部藩主となった。出奔から十三年経過している。
ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8C%82%E6%9C%A8%E8%97%A9
ja.wikipedia.org/wiki/谷田部藩