津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

気になる今日の「ヤフートピックス」

2008-11-10 20:50:53 | 徒然
■データは消えない―メモリカードやUSBメモリに潜む落とし穴
    皆さんご存知でしたか?私は知りませんでしたよ。もっとも図面データの受け渡しくらい
    しか使ってませんでしたけど。

■写真ピックアップ「水面から見上げる紅葉=熊本」
    美しいですねー。私もまだここは訪ねた事はないのですが、是非行ってみたいものです。
 ・蘇陽峡  www.yado.co.jp/kankou/kumamoto/kumanaka/soyoukyo/soyoukyo.html
 ・弊立神宮 www.ajkj.jp/ajkj/kumamoto/soyo/kanko/heitatejingu/heitatejingu.html
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浅井茂十郎なるひと

2008-11-10 14:38:16 | memo
 天正十年九月八日、忠興は妹(伊也・後吉田兼治室)婿・一色義有を謀殺する。細川家の歴史上最大の汚点と言ってよかろう。伊也は前述の如く吉田兼治に再嫁し沢山の子をもうけ、幸せな一生を送っている。しかし一色義有との間に生まれた男子は、剃髪して愛宕山福寿院に入院させられている。幸能法印と称したが二十五歳で亡くなった。

 その幸能法印が愛宕山に入るとき、付き添ったのが浅井茂十郎。湯川随節なる人の由緒書に「先祖浅井茂十郎三齋様御甥愛宕江御入院被成候節御附被成、後御差図を以湯川竹雲と申もゝの養子ニ相成、湯川宗碩と改候 云々」とある。(綿孝輯録巻九 忠興公・上p42)
 この湯川随節、同竹雲・同宗碩なる人物については、私は良く知らないのだが、浅井茂十郎の名前は宇土細川藩の侍帳に、浅井九郎右衛門・同伝左衛門の項に「父親・浅井茂十郎」と記載されてある。話の辻褄が合わないではないかと、首を傾げている。

 
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介錯人の末裔

2008-11-10 12:50:32 | 徒然
 忠興(三齋)の死後、五人の方々が殉死をされた。蓑田平七正元、久野与右衛門宗直、小野伝兵衛友次、宝泉院勝延、そして森鴎外の小説でおなじみの興津彌五右衛門の五人である。我が家の初代の実兄・磯部長五郎が蓑田平七殿の介錯役を務めた。久野与右衛門は召出直後相役であったと先祖附は記している。

 磯部長五郎が蓑田平七の介錯役を務めたことを知ったのは、森鴎外の「興津弥五右衛門の遺書」を読んでのことであった。随分以前のことであるが、このことが私を「歴史狂い」に導いたのかもしれない。それ以後、蓑田氏、久野氏のご子孫の消息を探しているが、未だ情報を得られないでいる。

 このサイトでもご紹介している「コーヒーブレイク・エッセイ」のK氏は、赤穂浪士・堀部弥兵衛の介錯役を務められた米良市右衛門のご子孫である。そのことを書かれたエッセイ「介錯人の末裔」が、今年の「08年度ベスト・エッセイ集--美女という災難」に掲載された。(当サイトでもお読みいただける)K氏は赤穂義士研究者・史家S氏のご紹介で、堀部弥兵衛のご子孫とお会いになった。そんなてん末もユーモアあふれる筆致で紹介されている。再度のご一読をお薦めする。

 私も、蓑田家ご子孫の消息を知りたいと思う一方、K氏同様どんなご挨拶をしたら良いものかとも思い、消息は知れぬままのほうがよいのかもしれないと思ったりもしている。
コメント (7)
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阿諛便佞(あゆべんねい)

2008-11-10 09:48:43 | 歴史
 去々年(寛永元年)、交趾江渡船せしもの帰国、伽羅持参いたし候、三齋君白菊と御名付、其箱の蓋に御自筆御書付

    寛永元年交趾江
    渡船同三年ニ来
    伽羅白菊と名之
 
      たくひありと
           誰かは 
           いはん
         すゑにほふ
     秋より後の
       白菊の花

 綿孝輯録巻二十一(忠興公・下)p127に記載ある分だが、賢明なる諸氏はすでにお気付きであろう。
森鴎外著「興津彌五右衛門の遺書」に登場する「名香白菊」のことである。      
        www.aozora.gr.jp/cards/000129/card45209.html
指渡五寸(≒15㌢)長サ八寸余(≒24㌢余)、懸目(重さ)三百目の香木の取得をめぐって、興津彌五右衛門の手により一人の侍・相役横田清兵衛が命を絶たれた。彌五右衛門もまたこの事件が原因で、忠興の三回忌にあたり殉死する。晴れがましい舞台が誂えられた。何故なのか、未だに私には理解が出来ないでいる。そして異常ともいえる綿孝輯録の詳細な記載である。それは森鴎外の知るところとなって、名作「興津彌五右衛門の遺書」となる訳だが、創作であるから当然脚色があることを承知しておかなければならないのだが、哀れは横田清兵衛である。高価な香木を手に入れる事に、彌五右衛門は「某はただ主命と申物が大切なるにて」という。清兵衛は彌五右衛門の申し様を「阿諛便佞(あゆべんねい)の所為なるべしと」という。まさに実直な侍であったのだろうが、天は彼に味方しなかった。名香「白菊」に接して、忠興の脳裏に清兵衛の無念など感じる事はなかったのだろうか。二人の命が懸かった、まさに高価な香木である。
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