過日車で夜の繁華街に紛れ込んだ。脇道に入って近道し様と思ったのが、それがかえって災いし、にっちもさっちも動けなくなってしまった。若い男女が車が走る道であることを忘れて、勝手気ままに歩いている。
夏目漱石が、「涼しさや裏は鐘うつ光琳寺」と詠んだかっての光琳寺町、いまは酔客で満ち溢れた歓楽の町である。江戸期の地図を見ると、現在の光琳寺通りはない。終戦後の都市計画で出来た通りだろう。両隣や裏の方は侍屋敷だが、道前は御長柄や中間の小さな家が立ち並んでいた。道筋は昔も今も殆ど変わっていない。今はただ下通り○丁目などという、旧郵政省の都合による町名に変わってしまった。光琳寺も太平洋戦争で焼失したとかで廃寺となって、今は全く其の痕跡を残していない。細川忠利に殉死したお犬牽の津崎五助のお寺であったらしい。
通りを歩く酔客は、その通りの名の由来などまったく御存知なかろうし、漱石の俳句など論外の事だろう。不景気な世の中だが、酔客が集う街「光琳寺通り」である。
夏目漱石が、「涼しさや裏は鐘うつ光琳寺」と詠んだかっての光琳寺町、いまは酔客で満ち溢れた歓楽の町である。江戸期の地図を見ると、現在の光琳寺通りはない。終戦後の都市計画で出来た通りだろう。両隣や裏の方は侍屋敷だが、道前は御長柄や中間の小さな家が立ち並んでいた。道筋は昔も今も殆ど変わっていない。今はただ下通り○丁目などという、旧郵政省の都合による町名に変わってしまった。光琳寺も太平洋戦争で焼失したとかで廃寺となって、今は全く其の痕跡を残していない。細川忠利に殉死したお犬牽の津崎五助のお寺であったらしい。
通りを歩く酔客は、その通りの名の由来などまったく御存知なかろうし、漱石の俳句など論外の事だろう。不景気な世の中だが、酔客が集う街「光琳寺通り」である。