以下は天草島原の乱に於いて負傷し、後に亡くなった方々の跡目に関する「覚」である。
わずか三歳の子供が相続を許されている一方、軍法に背いたとして跡目が許されない家が
あるなど悲喜こもごもが見て取れる。
覚 青字は「御書入」
跡可遣也
■(日付けの書込み無)
一 百五十石 住江茂左衛門
同人子歳六ッ 権十郎
右者今度有馬城乗之刻二月廿七日二鉄炮手を負罷帰養生
仕候へとも本復不仕四月廿五日ニ相果申候以上
【その後の消息】
住江権十郎 十二番牧平左衛門組 百五十石 (真源院様御代御侍名附)
百五十石 (真源院様御代御侍免撫帳)
百五十石 承応二年十一月御暇被遣候
跡可遣也
■寛永拾四年十一月三日ニ病死
一 百五十石 服部五郎兵衛
同人子歳十六
御目見仕候 三平
後家
【その後の消息】
服部五郎兵衛 有吉内膳組 百五十石 (寛文四年六月・御侍帳)
此の人が三平か、以下消息不明
跡可遣也
■同年十二月晦日ニ病死
一 弐百石 堀田甚右衛門
同人子歳三十弐
御目見仕候 九平太
後家
■寛永拾五年正月廿六日ニ病死
一 弐百石 北村昨雲
昨雲跡ハ薬師之事ニ候間宗雲ニ被遣候長右衛門叓者格別ニ可被
仰付候旨被 仰出候也
同人子歳三十七
御目見仕候 長右衛門
跡ハこれニ遣 同人子 宗雲
同 後家
■同年二月廿五日ニ病死
一 三百石 小山八左衛門
同人嫡子
弐百石 六兵衛
久敷煩不立御用ニ候上者成人之子共を持たる事ニ候間存
命之内ニ御理をも申上事ニ候不届儀と被思召候間跡を
立不被遣旨被 仰出候也
同人二男歳三拾五
御目見仕候 七郎右衛門
後家
■同年四月廿五日ニ病死
一 三百石 津田勘左衛門
おとゝニ遣也
弟平丞ニ被遣也
同人
母
後家
右勘左衛門書置御座候条差上申候以上
【その後の消息】
平之允(弟)
(1)三百石(真源院様御代御侍免撫帳)
(2)有吉頼母允組 三百石(寛文四年六月・御侍帳)
■同年四月廿五日ニ病死
一 七百石 魚住加助
同人子歳三ッ
久八
同人弟歳拾九
孫四郎
同人歳廿
妹壱人
後家
おとゝニ別ニ知行遣候ニ加介事不奉公者にて候つれとも
おや・おうしニたいし遣候つる跡はたて申ましく候
(綿考輯録・巻五 魚住加助【田辺城籠城】項)より
加助は市正嫡男也、幽齋君御側ニ被召仕十七歳の時傍輩に意趣有之、伏見京橋ニ出合討果、
直に若狭江立退候、当時丹波國に身を隠し居候処、田辺御籠城之段きヽ付、白昼に敵陳を凌き、
御城に籠り走廻り働候段、篠山五左衛門申上、咎被成御免、御知行七百石、御使番ふれなかし
の触元被仰付、并七本はれん御指物拝領、小倉にて病死、*其子孫四郎(後改加助)幼年ニ付、
先御知行三百石被下、十五歳ニ成候節、七百石被下候、有馬御陳之節、弟孫四郎と一同ニ御
供、御帰陳之上果候、御軍法を背候間、跡式不被仰付候、弟孫四郎江三百石被為拝領候処、
様子御座候て、御暇被下候、
■同年五月三日ニ病死
一 弐百石 山路太左衛門
同人子歳六ッ
弐(ママ)可遣候也 次郎七
【その後の消息】
太左衛門(初・太郎七)寛文十年五月六日・病気の為自害(息与茂之丞十四歳)
■同年五月三日ニ病死
一 弐百五十石 須佐美兵丞
同人子歳拾壱
跡可遣候也
團四郎
同人
娘弐人
■同年五月六日ニ病死
一 千石 佐藤安右衛門
右之内 七百石 同人子
弐百石 安大夫
右同 同人子
三百石 孫平次
八人扶持 同人歳十
むすめ弐人
後家
■同年五月十六日ニ病死
一 弐百石 町 与左衛門
同人子歳廿四
可跡遣候 作丞
後家
右与左衛門知行之儀ハ先代ニひらきを仕ニ付其刻より無役
ニ知行仕候通被届聞召如前々之被為拝領候以上
■同年五月十六日ニ病死
一 三百石 佐野半左衛門
同人子歳三十
跡可遣候 藤兵衛
御目見仕候 同人子歳廿三
九左衛門
後家
■同年五月廿一日に病死
一 三百石 魚住藤三郎
同人子歳廿壱
跡可遣候也
御目見仕候 助九郎
同人
むすめ弐人
わけ可承候
■同年六月九日ニ病死
一 弐百四拾石 魚住忠兵衛
同人子供歳三ッ
むすこ壱人
同人
むすめ四人
同人歳三十
おい壱人
後家
右ニらち明候
■當正月十六日ニ病死仕候 友田次郎兵衛
右次郎兵衛知行ハ煩申ニ付去々年差上申候其刻ノ源右衛門ニ被遣候以上
【その後の消息】
(大阪御陳)手ニ合候者---七月朔日御饗応、御褒美被下候
知行百石 御帷子ニ(御紋付)御銀十枚 御側を不放居申候と也(綿考輯録・巻十九)
(1)馬廻組一番組 二百五拾石 (於豊前小倉御侍帳)
(2) 御馬廻衆 三百五十石 (肥後御入国宿割帳)
(3) 七百石 (真源院様御代御侍免撫帳)・・源右衛門
やくそく可承候
■當四月五日ニ病死 三池左馬允
同人子歳廿五
左兵衛
同人二男歳廿壱
善大夫
同人三男歳四ッ
亀松
母
後家
右左馬允ハいまた御扶持方をも不被下候以上
【その後の消息】
・左兵衛については資料がない
・善大夫親次
人持衆并組外衆 五十人扶持 (真源院様御代御侍名附)
御知行御合力米御御扶持方被遣衆・五十人扶持 (寛文四年六月・御侍帳)
細川綱利公御書出(貞享五年)三百石
三池善大夫知行目録(貞享五年)
三池善大夫知行所付目録(貞享五年)
右者去年・當年相果申衆之分書付指上申候間御次而を以
可有御披露候以上
六月廿日 河喜多五郎右衛門 判
椋 梨 半 兵 衛 判
差相御座候付判形不仕上候以上
堀 江 勘 兵 衛
坂崎内膳殿
参
わずか三歳の子供が相続を許されている一方、軍法に背いたとして跡目が許されない家が
あるなど悲喜こもごもが見て取れる。
覚 青字は「御書入」
跡可遣也
■(日付けの書込み無)
一 百五十石 住江茂左衛門
同人子歳六ッ 権十郎
右者今度有馬城乗之刻二月廿七日二鉄炮手を負罷帰養生
仕候へとも本復不仕四月廿五日ニ相果申候以上
【その後の消息】
住江権十郎 十二番牧平左衛門組 百五十石 (真源院様御代御侍名附)
百五十石 (真源院様御代御侍免撫帳)
百五十石 承応二年十一月御暇被遣候
跡可遣也
■寛永拾四年十一月三日ニ病死
一 百五十石 服部五郎兵衛
同人子歳十六
御目見仕候 三平
後家
【その後の消息】
服部五郎兵衛 有吉内膳組 百五十石 (寛文四年六月・御侍帳)
此の人が三平か、以下消息不明
跡可遣也
■同年十二月晦日ニ病死
一 弐百石 堀田甚右衛門
同人子歳三十弐
御目見仕候 九平太
後家
■寛永拾五年正月廿六日ニ病死
一 弐百石 北村昨雲
昨雲跡ハ薬師之事ニ候間宗雲ニ被遣候長右衛門叓者格別ニ可被
仰付候旨被 仰出候也
同人子歳三十七
御目見仕候 長右衛門
跡ハこれニ遣 同人子 宗雲
同 後家
■同年二月廿五日ニ病死
一 三百石 小山八左衛門
同人嫡子
弐百石 六兵衛
久敷煩不立御用ニ候上者成人之子共を持たる事ニ候間存
命之内ニ御理をも申上事ニ候不届儀と被思召候間跡を
立不被遣旨被 仰出候也
同人二男歳三拾五
御目見仕候 七郎右衛門
後家
■同年四月廿五日ニ病死
一 三百石 津田勘左衛門
おとゝニ遣也
弟平丞ニ被遣也
同人
母
後家
右勘左衛門書置御座候条差上申候以上
【その後の消息】
平之允(弟)
(1)三百石(真源院様御代御侍免撫帳)
(2)有吉頼母允組 三百石(寛文四年六月・御侍帳)
■同年四月廿五日ニ病死
一 七百石 魚住加助
同人子歳三ッ
久八
同人弟歳拾九
孫四郎
同人歳廿
妹壱人
後家
おとゝニ別ニ知行遣候ニ加介事不奉公者にて候つれとも
おや・おうしニたいし遣候つる跡はたて申ましく候
(綿考輯録・巻五 魚住加助【田辺城籠城】項)より
加助は市正嫡男也、幽齋君御側ニ被召仕十七歳の時傍輩に意趣有之、伏見京橋ニ出合討果、
直に若狭江立退候、当時丹波國に身を隠し居候処、田辺御籠城之段きヽ付、白昼に敵陳を凌き、
御城に籠り走廻り働候段、篠山五左衛門申上、咎被成御免、御知行七百石、御使番ふれなかし
の触元被仰付、并七本はれん御指物拝領、小倉にて病死、*其子孫四郎(後改加助)幼年ニ付、
先御知行三百石被下、十五歳ニ成候節、七百石被下候、有馬御陳之節、弟孫四郎と一同ニ御
供、御帰陳之上果候、御軍法を背候間、跡式不被仰付候、弟孫四郎江三百石被為拝領候処、
様子御座候て、御暇被下候、
■同年五月三日ニ病死
一 弐百石 山路太左衛門
同人子歳六ッ
弐(ママ)可遣候也 次郎七
【その後の消息】
太左衛門(初・太郎七)寛文十年五月六日・病気の為自害(息与茂之丞十四歳)
■同年五月三日ニ病死
一 弐百五十石 須佐美兵丞
同人子歳拾壱
跡可遣候也
團四郎
同人
娘弐人
■同年五月六日ニ病死
一 千石 佐藤安右衛門
右之内 七百石 同人子
弐百石 安大夫
右同 同人子
三百石 孫平次
八人扶持 同人歳十
むすめ弐人
後家
■同年五月十六日ニ病死
一 弐百石 町 与左衛門
同人子歳廿四
可跡遣候 作丞
後家
右与左衛門知行之儀ハ先代ニひらきを仕ニ付其刻より無役
ニ知行仕候通被届聞召如前々之被為拝領候以上
■同年五月十六日ニ病死
一 三百石 佐野半左衛門
同人子歳三十
跡可遣候 藤兵衛
御目見仕候 同人子歳廿三
九左衛門
後家
■同年五月廿一日に病死
一 三百石 魚住藤三郎
同人子歳廿壱
跡可遣候也
御目見仕候 助九郎
同人
むすめ弐人
わけ可承候
■同年六月九日ニ病死
一 弐百四拾石 魚住忠兵衛
同人子供歳三ッ
むすこ壱人
同人
むすめ四人
同人歳三十
おい壱人
後家
右ニらち明候
■當正月十六日ニ病死仕候 友田次郎兵衛
右次郎兵衛知行ハ煩申ニ付去々年差上申候其刻ノ源右衛門ニ被遣候以上
【その後の消息】
(大阪御陳)手ニ合候者---七月朔日御饗応、御褒美被下候
知行百石 御帷子ニ(御紋付)御銀十枚 御側を不放居申候と也(綿考輯録・巻十九)
(1)馬廻組一番組 二百五拾石 (於豊前小倉御侍帳)
(2) 御馬廻衆 三百五十石 (肥後御入国宿割帳)
(3) 七百石 (真源院様御代御侍免撫帳)・・源右衛門
やくそく可承候
■當四月五日ニ病死 三池左馬允
同人子歳廿五
左兵衛
同人二男歳廿壱
善大夫
同人三男歳四ッ
亀松
母
後家
右左馬允ハいまた御扶持方をも不被下候以上
【その後の消息】
・左兵衛については資料がない
・善大夫親次
人持衆并組外衆 五十人扶持 (真源院様御代御侍名附)
御知行御合力米御御扶持方被遣衆・五十人扶持 (寛文四年六月・御侍帳)
細川綱利公御書出(貞享五年)三百石
三池善大夫知行目録(貞享五年)
三池善大夫知行所付目録(貞享五年)
右者去年・當年相果申衆之分書付指上申候間御次而を以
可有御披露候以上
六月廿日 河喜多五郎右衛門 判
椋 梨 半 兵 衛 判
差相御座候付判形不仕上候以上
堀 江 勘 兵 衛
坂崎内膳殿
参