寛永十二年九月江戸に在った三齋は、七日江戸発駕十八日京都に入った。二十三日酒井讃岐守・土井大炊頭宛て、「当地にてゆるゆると養生可仕と存候処、在所より急用申越候ニ付、今月廿三(日)罷下候」と書状を発している。その急用とは、「周岳院殿以外之煩之由」とあり「八代より注進有之候間、早々京を御立被成候」とある。続いて「周岳院殿ハ十一月十九日死去なり明智次右衛門女ニテ御万様御妾母也、少名少也々と云、五十八歳周岳院雪山宗広」とある。(綿孝輯録巻二十三 忠興公(下)p224)
さて、綿孝輯録の編者・小野武次郎は寛政八年天授庵を訪ねている。ここには幽齋、室光壽院、忠興、忠利、光尚の石碑があり、忠利室正受院の石碑の側にある「天沢院梅渓円清」という石碑を見つけ、不思議に思い尋ねている。天授庵よりの答えは「鳳祥院様烏丸光賢卿之御簾中、三齋様之御姫(お万)之御母之儀之由」つまりお万の生母であると答えている。小野武次郎は「それはおかしい、お万様の御生母(明智次右衛門女)は周岳院と申上げる」と再度確認すると、天授庵側は「ちゃんと寺の記録に留められており間違いない」と答えている。没年の記録も間違いない。小野武次郎は納得行かない様子で、「御国ニ而周岳院と申候を天授庵ニ石碑御建被成候節、法号被改候哉、不詳」とお茶を濁して納めている。
どうやらこれは小野武次郎の間違い(上記赤字部分)であるようだ。
忠興の八代領を相続していた細川立孝(立允)の生母は、清田主計鎮乗入道素閑女・幾知(圓通院)であるが、養母は永井四郎左衛門入道宗花女であり、此の人こそが周岳院である。細川家の歴史は綿孝輯録に完璧な形で網羅されている訳ではない。間違いも多々見受けられる。心して読まなければ成らない。
さて、綿孝輯録の編者・小野武次郎は寛政八年天授庵を訪ねている。ここには幽齋、室光壽院、忠興、忠利、光尚の石碑があり、忠利室正受院の石碑の側にある「天沢院梅渓円清」という石碑を見つけ、不思議に思い尋ねている。天授庵よりの答えは「鳳祥院様烏丸光賢卿之御簾中、三齋様之御姫(お万)之御母之儀之由」つまりお万の生母であると答えている。小野武次郎は「それはおかしい、お万様の御生母(明智次右衛門女)は周岳院と申上げる」と再度確認すると、天授庵側は「ちゃんと寺の記録に留められており間違いない」と答えている。没年の記録も間違いない。小野武次郎は納得行かない様子で、「御国ニ而周岳院と申候を天授庵ニ石碑御建被成候節、法号被改候哉、不詳」とお茶を濁して納めている。
どうやらこれは小野武次郎の間違い(上記赤字部分)であるようだ。
忠興の八代領を相続していた細川立孝(立允)の生母は、清田主計鎮乗入道素閑女・幾知(圓通院)であるが、養母は永井四郎左衛門入道宗花女であり、此の人こそが周岳院である。細川家の歴史は綿孝輯録に完璧な形で網羅されている訳ではない。間違いも多々見受けられる。心して読まなければ成らない。