津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

周岳院どの

2008-11-09 15:05:10 | 歴史
 寛永十二年九月江戸に在った三齋は、七日江戸発駕十八日京都に入った。二十三日酒井讃岐守・土井大炊頭宛て、「当地にてゆるゆると養生可仕と存候処、在所より急用申越候ニ付、今月廿三(日)罷下候」と書状を発している。その急用とは、「周岳院殿以外之煩之由」とあり「八代より注進有之候間、早々京を御立被成候」とある。続いて「周岳院殿ハ十一月十九日死去なり明智次右衛門女ニテ御万様御妾母也、少名少也々と云、五十八歳周岳院雪山宗広」とある。(綿孝輯録巻二十三 忠興公(下)p224)
 さて、綿孝輯録の編者・小野武次郎は寛政八年天授庵を訪ねている。ここには幽齋、室光壽院、忠興、忠利、光尚の石碑があり、忠利室正受院の石碑の側にある「天沢院梅渓円清」という石碑を見つけ、不思議に思い尋ねている。天授庵よりの答えは「鳳祥院様烏丸光賢卿之御簾中、三齋様之御姫(お万)之御母之儀之由」つまりお万の生母であると答えている。小野武次郎は「それはおかしい、お万様の御生母(明智次右衛門女)は周岳院と申上げる」と再度確認すると、天授庵側は「ちゃんと寺の記録に留められており間違いない」と答えている。没年の記録も間違いない。小野武次郎は納得行かない様子で、「御国ニ而周岳院と申候を天授庵ニ石碑御建被成候節、法号被改候哉、不詳」とお茶を濁して納めている。

 どうやらこれは小野武次郎の間違い(上記赤字部分)であるようだ。

 忠興の八代領を相続していた細川立孝(立允)の生母は、清田主計鎮乗入道素閑女・幾知(圓通院)であるが、養母は永井四郎左衛門入道宗花女であり、此の人こそが周岳院である。細川家の歴史は綿孝輯録に完璧な形で網羅されている訳ではない。間違いも多々見受けられる。心して読まなければ成らない。
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忠興隠居領を立孝に譲る

2008-11-09 11:09:13 | 歴史
■寛永十六年正月五日、忠利君八代ニ御出被成候
■同年二月五日、三齋君御隠居之御家督を立考主江御譲被成候
    「予ての御名依存ニ御存正之内御譲置せらるへきとて、吉日を被撰、今日八代本丸でいの間
     にて、御父子様御着座、一番に朽葉之御指物佐方与左衛門持出、是ハ大坂之役に御差被
     成、弐番ニ御旄を志方半兵衛持出候、是ハ信長公より御拝領度々無越度目出度とて御譲、
     御樽肴・熨斗・銀五百枚長岡河内披露仕候、此御座敷にて御囃子被仰付御家中御侍不残
     御酒被下、御肴之熨斗を頂戴、扨御旄被遣候時之御意ニ、休無ニ遣しても不苦ものなれ共
     牢人にて不入もの也、越中ハ大名也、其方ニ譲ると被仰候」
次の項は9/25ブログ「幻の八代細川藩六万石」でご紹介したものの再掲である。
■『部分御舊記』(熊本縣資料・近世編第一 p289)に、正源院宛忠利書状(抜粋)として次のような文書がある。
    「我等弟立允事人質之為替と江戸へ三齋御下候 御目見させ被成度由に付て心得之由返事申
     候又重而立允身上之事は先ツ三齋御一代は此中のことくにて江戸ニ居三齋後は知行都合六
     萬石に可仕由約束仕埒明ケ申候 (略)」

     舟田義輔氏の研究論文『宇土細川支藩成立の前後』の、系譜「5-細川立孝」の欄に、
     【寛永十六年六月廿二日三齋死後は隠居料分を加えて立孝の家督を六万石に決める
     (部分御旧記による)】とあるが、上記文書のことであろうか。
                (この項了)

 冒頭の忠利の八代訪問について特段詳細はないが、当然のことながら二月五日の隠居領を立孝に譲る事については話し合いがもたれ、忠利も了承したのであろう。
この二月五日の儀式の不思議さは、本藩からの出席者が見えないことである。
六月廿二日という日付は、上記のことについて忠利が正源院への書状の中に認めたものであり、その日をもって「決めた」という訳ではあるまい。更なる史料の登場が待たれる。
ちなみに東大史料編纂所の大日本近世史料-細川家史料の人物索引では、正源院(しょうげんいん)とは『東大寺塔頭正源院塔主。初代住持法印訓賢、あるいは二代住持権律師賢盛か』だとしている。

  


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