最近「覚」なるものをいくつかご紹介している。これが面白いのは、先祖附けにも記されていない事柄が沢山見受けられるからである。それを「新細川家侍帳」に転記するのだが、親子関係や兄弟、縁戚などが判明して大変面白い。跡目についても、藩主の依怙贔屓らしきものも見えて興味深い。小倉時代盛んに名前が出てくる人が突然居なくなったりする事例は沢山あるが、其の原因までは分からないまでも、新事実が発見されることも多い。「部分御舊記」(熊本縣史料)は、まさに情報の宝庫といった感じである。いささかマニアックではあるが、しばらく続けたいと思っている。
史料を見ていると「浜町云々」の書き込みをよく見る。細川家の江戸下屋敷が浜町にあったことによる。 www.dentan.jp/ningyou/suiten3.html
隠居して、自らのことを「浜町様」と呼ぶようにと言った殿様が、十代当主の斉茲である。のちに「少将様」に替わった。
わたしがかねがね、細川宗家の血は宇土細川家の血と広言して憚らないが、時々お叱りを受ける。宗家の血は宗家の血だと・・・・? ご尤もとも思うが略系図にしてみるとこれは歴然としている。当主としては斉茲が始まりであるが、前触れ如きものが以前からある。
1、重賢の同母妹幾が宇土細川家五代興里に嫁いだこと
1、その興里が結婚後すぐ亡くなり、弟興文が六代当主となったこと
1、重賢息・治年に興文女埴が嫁いだこと
1、治年が病となり後継者問題が起り、躊躇する興文息・立礼(斉茲)を、興里室(幾)が
強力にこれを推したこと
こういう経緯があって、宗家十代当主斉茲が誕生したのだが、治年にとっては斉茲は室埴の弟であることに気づかれるであろう。その後も以下のような濃密な関係が続き、宗家の血は宇土細川家の血に入れ替わっていくのである。
宗家
7 8 9 10 11 12
+--宗孝===重賢---治年===斉茲---斉樹===斉護
| ∥
+--重賢 ∥
| ∥
+--●幾 ∥
宇土細川家 ∥ ∥
+--興里 +----●埴
| |
+--興文----+--立礼(斉茲)---立之---+--立政(斉護)
|
+--行芬・・・・・・・→宇土細川家
ところで立礼が宗家に入るのは28歳の時である。既に男子がありその立之が僅か4歳で宇土支藩を襲封する。生母は既にない。宗家に入った立礼(斉茲)は、男子・斉樹をもうける。長男・立之、二男・斉樹は異母兄弟ではあるのだが、二人は並べられて両家の系図に登場することはない。11代斉樹には男子がない。そこで宇土の兄・立之の子立政が養嗣子として宗家に入り、12代斉護となるのである。立政(斉護)の生母栄昌院は賢夫人の誉れ高い方だが、老中土井大炊頭利厚の三女である。家臣・佐方信規が書き残したとされる「栄昌大夫人遺事」を、今我々は宮村典太の雑撰録によって、栄昌院の偉大さを知るのである。興文公をはじめとする多くの宇土の血が入り、宗家の血となった。
隠居して、自らのことを「浜町様」と呼ぶようにと言った殿様が、十代当主の斉茲である。のちに「少将様」に替わった。
わたしがかねがね、細川宗家の血は宇土細川家の血と広言して憚らないが、時々お叱りを受ける。宗家の血は宗家の血だと・・・・? ご尤もとも思うが略系図にしてみるとこれは歴然としている。当主としては斉茲が始まりであるが、前触れ如きものが以前からある。
1、重賢の同母妹幾が宇土細川家五代興里に嫁いだこと
1、その興里が結婚後すぐ亡くなり、弟興文が六代当主となったこと
1、重賢息・治年に興文女埴が嫁いだこと
1、治年が病となり後継者問題が起り、躊躇する興文息・立礼(斉茲)を、興里室(幾)が
強力にこれを推したこと
こういう経緯があって、宗家十代当主斉茲が誕生したのだが、治年にとっては斉茲は室埴の弟であることに気づかれるであろう。その後も以下のような濃密な関係が続き、宗家の血は宇土細川家の血に入れ替わっていくのである。
宗家
7 8 9 10 11 12
+--宗孝===重賢---治年===斉茲---斉樹===斉護
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+--重賢 ∥
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+--●幾 ∥
宇土細川家 ∥ ∥
+--興里 +----●埴
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+--興文----+--立礼(斉茲)---立之---+--立政(斉護)
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+--行芬・・・・・・・→宇土細川家
ところで立礼が宗家に入るのは28歳の時である。既に男子がありその立之が僅か4歳で宇土支藩を襲封する。生母は既にない。宗家に入った立礼(斉茲)は、男子・斉樹をもうける。長男・立之、二男・斉樹は異母兄弟ではあるのだが、二人は並べられて両家の系図に登場することはない。11代斉樹には男子がない。そこで宇土の兄・立之の子立政が養嗣子として宗家に入り、12代斉護となるのである。立政(斉護)の生母栄昌院は賢夫人の誉れ高い方だが、老中土井大炊頭利厚の三女である。家臣・佐方信規が書き残したとされる「栄昌大夫人遺事」を、今我々は宮村典太の雑撰録によって、栄昌院の偉大さを知るのである。興文公をはじめとする多くの宇土の血が入り、宗家の血となった。
覚
一、堀長左衛門知行四百石并家屋敷共ニせかれ五郎左衛門ニ可遣也
一、佐野次太夫知行弐百石并家屋敷共ニせかれ次兵衛ニ可遣也
一、磯貝次郎左衛門知行三百石并家屋敷共ニせかれ七郎右衛門ニ可遣也
七郎右衛門先知・家屋敷上ヶ可申也
一、横田勘左衛門知行弐百五十石之内百五十石家屋敷共ニせかれ吉左衛門
ニ可遣 残百石吉左衛門弟助丞ニ可遣也
一、上林甚助知行三百石之内弐百石家屋敷共ニせかれ二郎左衛門ニ可遣候
今迄甚助ニ預置候与も二郎左衛門ニ預置可申也 残百石二郎左衛門弟
甚十郎ニ二郎左衛門今迄之家屋敷共ニ可遣也
一、金守清太夫せかれ清十郎ニ八人扶持方歳十五ニ成候迄可遣也
一、船頭河野惣右衛門知行八拾石せかれ六兵衛ニ可遣也
以上
寛永弐拾壱年七月十四日 御印
奉行中
一、堀長左衛門知行四百石并家屋敷共ニせかれ五郎左衛門ニ可遣也
一、佐野次太夫知行弐百石并家屋敷共ニせかれ次兵衛ニ可遣也
一、磯貝次郎左衛門知行三百石并家屋敷共ニせかれ七郎右衛門ニ可遣也
七郎右衛門先知・家屋敷上ヶ可申也
一、横田勘左衛門知行弐百五十石之内百五十石家屋敷共ニせかれ吉左衛門
ニ可遣 残百石吉左衛門弟助丞ニ可遣也
一、上林甚助知行三百石之内弐百石家屋敷共ニせかれ二郎左衛門ニ可遣候
今迄甚助ニ預置候与も二郎左衛門ニ預置可申也 残百石二郎左衛門弟
甚十郎ニ二郎左衛門今迄之家屋敷共ニ可遣也
一、金守清太夫せかれ清十郎ニ八人扶持方歳十五ニ成候迄可遣也
一、船頭河野惣右衛門知行八拾石せかれ六兵衛ニ可遣也
以上
寛永弐拾壱年七月十四日 御印
奉行中