齊護公の長男慶前は、齊護が宗家に入る前年に生まれたが、宇土に於いて幼少期を過している。
13歳で宗家に入り、15歳で宗家の嫡子として認められた。21歳で新田藩主・利用の息女茂姫と結婚、
嘉永元年四月十四日江戸に於いて23歳で死去した。
「肥後恕齋日録」(第ニ巻)に、慶前死去に係わる記述がある。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
(四月)二十六日 今朝山口先生相見、夜前支給之雇飛脚着いたし候処、隣家平川も直ニ今朝迄
ハ御殿江相詰メ居申候、些不穏事にて、於江戸異変之儀有之候哉ニ相聞候段噂有之事
牧市之允より今夕案内有之候間右之御模様ニ付相断不可申との噂有之候事
今夜半比御触左之通
若殿様当月初比より御不例被為在候処、同十三日之夜より御胸御強御差込被遊候御気味被為在、
不軽御容體之団申来、乍恐奉気遣候、此段為被奉承知申達条、組々可被相知候、以上
四月廿六日 有吉市郎兵衛
柏原要人殿
13日の江戸の情報が26日には熊本に伝えられている。
右風聞書左之通
当月三日石小田御野屋敷(濱町屋敷)江太守様(齊護)・御前様・若殿様・勇姫様(後・松平春嶽室)御
入被遊、終日御興ニ被為入候而御帰殿被遊、其後 若殿様(慶前)些御塩梅ニ而、翌四日よりハ御動悸
強く被為在、其後御脚気之御気味被為在候、公義御医者多記様よりハ御脚気とハ不被奉診察候、其
後九日ニ者 太守様并御前様江も白金江被為入、御発前御餞別之御酒宴被為有候模様之処、其夜より
尚御食事等不被為進、御動悸強御胸下■(弟ニ欠)満御気急浮腫も被為在、深水玄門抔奉伺、不軽御
容體ニ申上候而、御衝心之所不気遣候処、尚又 公義御医者辻本様御出ニて、決而御脚気之御気遣ハ
不被為在候段被申候多記様ハ御衝心ハ御気負ニ付御気遣ハ被申上候由間、格別奉驚候様ニも無之候処、十ニ日
之夜俄ニ御衝心にて御大切之御容體ニ被為在候由ニ風聞いたし候事
五月三日訃報がもたらされる。
去月十六日於江戸御帰国之 上使被為入候段、今日御触有之候事
今夕御触之事
若殿様御所労御療養不被為叶、先月廿三日被遊 御逝去候段御到来有之奉恐入候、依之諸事穏便可
被相心得候、此段組々江茂可被相触候、尤此触状可有判形候、以上
五月三日 奉行所
今度御凶事ニ付、御家中之面々月額剃不申、長髪ニ而可有候、御家中家来々々ハ夫ニ不及、此段頭々江
無規度可及通達旨、御用番被申聞候条左様心得、御同役江茂可被成御通達候、以上
五月三日 奉行所
柏原要人殿
家臣については先ず月額を剃る事が留められた。太守に対する御機嫌伺が検討され、責馬・繕作事・新規作事遠慮の触が出された。
歌舞・音曲の停止、碁や将棋なども当然停止されたであろう。予定されていた藩主の帰国も延期された。月額剃行も十日には軽輩以下
が許され、士席以上は十一日解禁された。
尚、死去の日付については、上記記述と細川家記に食い違いが見える。なんらかの操作が行われたのか、
原因は判らない。
13歳で宗家に入り、15歳で宗家の嫡子として認められた。21歳で新田藩主・利用の息女茂姫と結婚、
嘉永元年四月十四日江戸に於いて23歳で死去した。
「肥後恕齋日録」(第ニ巻)に、慶前死去に係わる記述がある。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
(四月)二十六日 今朝山口先生相見、夜前支給之雇飛脚着いたし候処、隣家平川も直ニ今朝迄
ハ御殿江相詰メ居申候、些不穏事にて、於江戸異変之儀有之候哉ニ相聞候段噂有之事
牧市之允より今夕案内有之候間右之御模様ニ付相断不可申との噂有之候事
今夜半比御触左之通
若殿様当月初比より御不例被為在候処、同十三日之夜より御胸御強御差込被遊候御気味被為在、
不軽御容體之団申来、乍恐奉気遣候、此段為被奉承知申達条、組々可被相知候、以上
四月廿六日 有吉市郎兵衛
柏原要人殿
13日の江戸の情報が26日には熊本に伝えられている。
右風聞書左之通
当月三日石小田御野屋敷(濱町屋敷)江太守様(齊護)・御前様・若殿様・勇姫様(後・松平春嶽室)御
入被遊、終日御興ニ被為入候而御帰殿被遊、其後 若殿様(慶前)些御塩梅ニ而、翌四日よりハ御動悸
強く被為在、其後御脚気之御気味被為在候、公義御医者多記様よりハ御脚気とハ不被奉診察候、其
後九日ニ者 太守様并御前様江も白金江被為入、御発前御餞別之御酒宴被為有候模様之処、其夜より
尚御食事等不被為進、御動悸強御胸下■(弟ニ欠)満御気急浮腫も被為在、深水玄門抔奉伺、不軽御
容體ニ申上候而、御衝心之所不気遣候処、尚又 公義御医者辻本様御出ニて、決而御脚気之御気遣ハ
不被為在候段被申候多記様ハ御衝心ハ御気負ニ付御気遣ハ被申上候由間、格別奉驚候様ニも無之候処、十ニ日
之夜俄ニ御衝心にて御大切之御容體ニ被為在候由ニ風聞いたし候事
五月三日訃報がもたらされる。
去月十六日於江戸御帰国之 上使被為入候段、今日御触有之候事
今夕御触之事
若殿様御所労御療養不被為叶、先月廿三日被遊 御逝去候段御到来有之奉恐入候、依之諸事穏便可
被相心得候、此段組々江茂可被相触候、尤此触状可有判形候、以上
五月三日 奉行所
今度御凶事ニ付、御家中之面々月額剃不申、長髪ニ而可有候、御家中家来々々ハ夫ニ不及、此段頭々江
無規度可及通達旨、御用番被申聞候条左様心得、御同役江茂可被成御通達候、以上
五月三日 奉行所
柏原要人殿
家臣については先ず月額を剃る事が留められた。太守に対する御機嫌伺が検討され、責馬・繕作事・新規作事遠慮の触が出された。
歌舞・音曲の停止、碁や将棋なども当然停止されたであろう。予定されていた藩主の帰国も延期された。月額剃行も十日には軽輩以下
が許され、士席以上は十一日解禁された。
尚、死去の日付については、上記記述と細川家記に食い違いが見える。なんらかの操作が行われたのか、
原因は判らない。