津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

慶前公の死

2010-02-01 19:36:27 | 歴史
 齊護公の長男慶前は、齊護が宗家に入る前年に生まれたが、宇土に於いて幼少期を過している。
13歳で宗家に入り、15歳で宗家の嫡子として認められた。21歳で新田藩主・利用の息女茂姫と結婚、
嘉永元年四月十四日江戸に於いて23歳で死去した。
「肥後恕齋日録」(第ニ巻)に、慶前死去に係わる記述がある。
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(四月)二十六日 今朝山口先生相見、夜前支給之雇飛脚着いたし候処、隣家平川も直ニ今朝迄
ハ御殿相詰メ居申候、些不穏事にて、於江戸異変之儀有之候哉ニ相聞候段噂有之事
  牧市之允より今夕案内有之候間右之御模様ニ付相断不可申との噂有之候事
  今夜半比御触左之通
  若殿様当月初比より御不例被為在候処、同十三日之夜より御胸御強御差込被遊候御気味被為在、
  不軽御容體之団申来、乍恐奉気遣候、此段為被奉承知申達条、組々可被相知候、以上
      四月廿六日                   有吉市郎兵衛
        柏原要人殿
13日の江戸の情報が26日には熊本に伝えられている。

 右風聞書左之通
当月三日石小田御野屋敷(濱町屋敷)太守様(齊護)・御前様・若殿様・勇姫様(後・松平春嶽室)御
入被遊、終日御興ニ被為入候御帰殿被遊、其後 若殿様(慶前)些御塩梅ニ而、翌四日よりハ御動悸
強く被為在、其後御脚気之御気味被為在候、公義御医者多記様よりハ御脚気とハ不被奉診察候、其
後九日ニ者 太守様御前様江も白金被為入、御発前御餞別之御酒宴被為有候模様之処、其夜より
尚御食事等不被為進、御動悸強御胸下■(弟ニ欠)満御気急浮腫も被為在、深水玄門抔奉伺、不軽御
容體申上候、御衝心之所不気遣候処、尚又 公義御医者辻本様御出て、決御脚気之御気遣ハ
不被為在候段被申候多記様ハ御衝心ハ御気負ニ付御気遣ハ被申上候由間、格別奉驚候様ニも無之候処、十ニ日
之夜俄御衝心にて御大切之御容體被為在候由風聞いたし候事

五月三日訃報がもたらされる。
去月十六日於江戸御帰国之 上使被為入候段、今日御触有之候事
今夕御触之事
若殿様御所労御療養不被為叶、先月廿三日被遊 御逝去候段御到来有之奉恐入候、依之諸事穏便可
被相心得候、此段組々江茂可被相触候、尤此触状可有判形候、以上
    五月三日                         奉行所

今度御凶事ニ付、御家中之面々月額剃不申、長髪ニ而可有候、御家中家来々々ハ夫ニ不及、此段頭々
無規度可及通達旨、御用番被申聞候条左様心得、御同役江茂可被成御通達候、以上
    五月三日                         奉行所
      柏原要人殿

家臣については先ず月額を剃る事が留められた。太守に対する御機嫌伺が検討され、責馬・繕作事・新規作事遠慮の触が出された。
歌舞・音曲の停止、碁や将棋なども当然停止されたであろう。予定されていた藩主の帰国も延期された。月額剃行も十日には軽輩以下
が許され、士席以上は十一日解禁された。

尚、死去の日付については、上記記述と細川家記に食い違いが見える。なんらかの操作が行われたのか、
原因は判らない。
  
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高橋稲荷神社周辺

2010-02-01 16:44:41 | 熊本
 私の本籍地である熊本市城山下代町周辺には、「城山」を冠する町があと四つある。大塘、上代、薬師、半田などである。今日は初午だが、城山上代町には日本三大稲荷とも、五大稲荷ともいわれる高橋稲荷神宮がある。地元メディアはあいにくの雨の中に「商売繁盛」を願って訪れる人々の姿を写し出している。
          ajkj.jp/.../kumamoto/kumamoto/kanko/tahakashiinari/takahashiinari.html

 この神社がある後背地は稲荷山と呼ばれ、かっては熊本古城を築いた鹿子木氏の城があった。
この城山を取り囲むように五つの町がある。

 私の本籍がここにあるのは、廃藩後曽祖父たちがここに寓居を構えた事による。曽祖父の岳父・上田久兵衛は「半田」と号しているが、彼は城山半田に住んでいた。地図で確認すると僅か500メートルほどしか離れていない。現在では「熊本新港」に通ずる大きな道路で分断されているが、かっては一面の畑地で、高橋町から入っていた。高橋町は肥後藩五ヶ町の一つで重要な拠点であった。河、海を使った水運で賑わい、ここからいろんなものが河を遡り城下にもたらされた。

 国指定の有名な装飾古墳「千金甲古墳」が金峰山の麓にあるが1キロほどの距離である。
          kyuhaku.jmc.or.jp/index.php/-/43/83/-/-/-/-/d_frame.php

 新旧入り混じって発展する我父祖の地である。
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齊護卿遺事 ・・ 4

2010-02-01 10:14:58 | 歴史
一、近侍の若輩らには、事にふれ心得べき事ども、御さとしあり、例えば、諸器物調度取りあ
   つかふには、必ず人のしりへになおきそ、それ知らずして打こぼしそこなひなどした
   らむには、其者の過失にはあらず、置所に心せざりし者の罪ぞかしとのたまひけり、或
   時、御前に柿を奉りしを、皆ども、それたうべよとの仰せにより、手々に小刀もてるに、一
   人柿を掌にすゑて、中をゑりぬがんとしけるを見給ひて、そは危し、怪我もぞしてん、さ
   る事をして疵つきなんを、怪我とはいはれまじきぞ、我手して疵づけるなり、必ず心を
   用ひよとぞ仰せられける
一、御庭内にまれ、又御漁猟の折にてもあれ、御履の者居合せざるときには、御小姓より履
   つかふまつるに、必ず御手をあげさせられて、いたゞかせ給ふ御気色おはしましぬ、こ
   は侍たらんものに、はき物とらせ給ふが、御心外のゆゑなるべし
一、倹約を守らせ給ふ、事前にもあげし如くにて、すべて御先代の御おきてを守らせ給へ
   れば、器物調度のお物好おはしまさず、煙草の具の如きも、煙管は鐡にして、金銀かざれ
   るは用ひ給はず、御茶も上喜撰といふが上をば越させ給はず、又時々の初物とて、さゝ
   げ申しても、齊茲老君、蓮性院大夫人の御前に未だめされざる間は、きこし入れ給はざ
   りけり、御衣も御肌着には、木綿のみめし給ひぬ、又土木の御物好ましまさず、常のお座
   所も、先君の御時のまゝにして、そこねたるのみつくろはせ給へり、御末年に御隠居所
  
   の思召にて、濱町の第をいとなませ給へりしに、御居間の障子の唐紙に、いさゝか金色
   すりたるを御覧じて、かたはよろしけれど、同じくは、金のまじらざるもてせよと命じ
   給ひぬ、かゝる事にも儉を守らせ給ふ御心ふかくぞおはしける、常の御褥の表の方や
   れそこなはれたるを、その儘にさしおかせらるゝより、裏をかへし奉りをりけるに、其
   うらさへやれつゞれにければ、今はとて製りかへてぞ奉りける、幾年ばかり用ひ給ひ
   けん、御几上覆のきぬも、所々やれたるをば、糊してはりつくろはせ給ひてぞ用ひ給ひ
   ける、夏のあつき頃めし給ふかたびらの御衣に、色あせやすかるは、夕さり涼しくなり
   て奉れ、ひるのほど汗かき給はんに、一度あらひすゝがせば、不要ともなしはてんが、あ
   たらしきぞとのたまひぬ
一、東海道府中の宿過させ給ふ時には、所の名産とて、諸器物を多く御前に持出しぬ、され
   ど御物好にてとらせ給ふ物とてはなく、音信の志るしなどに、買ひとらせ給ふ品は稀
   にありけり、或時最めでたくたくみに作りし重箱を持出しを御覧じて、いと綺麗なる
   物かなとほめ給ひて、さてかたへの者どもにのたまふには、かゝる物は世の不用とや
   いはん、常に用ひんにはよろしきに過ぎたり、用ひずして庫内にひめ置かば、いたづら
   なり、きはめて用なきものならずやとのたまひけり
一、江戸と熊本との脚力ゆきかひせるは、月毎に両度なり、志かるを、事もなきをりには、月

   末のを延して、次の月初にあはせるぬる事もあなるを聞召して、そはふびんなり、數百里
   を隔てゝ、父母妻子に遠ざかり居ては、かたみにふみのたよりのみをぞ心やりとはせ
   ん、それに脚力一度省きなば、若干の日を隔てなん、こゝみもかしこにも、いかにおぼつ
   かなからむに、一度の費をいとはずして、必ず二度の數をなかきそと仰られける、又江
   戸につかふる者の、夏のいとあつきをりには、御門出の定の數の外に日を増さしめ給
   ひ、上下の苦をなぐさましめ給ひぬ
一、御参勤として、花畑の御館を發せ給ふの日、常の御居間にて、御酒めされ、御前に侍らふ
   ものにも、御盃賜はりぬるに、そゞろに御涙ぐませ給ふを、いかなる御故にかと見奉り
   しに、やゝ有て宣ひけるは、不覺の涙こぼしつ、上下おほくの物を數百里の外にぐしゆ
   かんには、みな/\父母兄弟夫妻の別をしむらん心の中、おしはかりければなりと、御
   聲くもらせ給ひにけり
一、常には寛裕第一におはしませば、かりそめにも、憤怒の色あらはし給はざりき、志か
   るに、天保の末頃、上野の火の御番にあたらせ給へりしに、時は十一月の末、寒気味殊に酷
   しく、雪みぞれふり、氷つらゝゐたるをりしも、山内失火有りて、大佛堂もやけぬ、されば
   君には御出馬あらせられんとの事なりしを、途ぬめり氷ゐて、馬の足も立かね侍らん
   とて、おとな達はじめ、志ひて出させ給はずともと、とゞめ奉りしかば、さらば物見せよ

   とて、近侍を遣はさる、その者歸りて、途の有かた申上しに、さらば道のほど馬しづかに
   だに歩ませんには、危事もあらじとて、既に打出給はんとし給ふ、その間におとなの中よ
   り、月番の老中の許に、君いたはりおはしませば、老臣して御名代にさし出さるとの届
   をなん仕りしと申上しに、君いたくいきどほらせ給ひて、よしなき事しつるものども
   かな、火の御番をば何の為に仕奉ぞや、かばりの事に公務怠らんは、いとかしこし
   とて、つや/\御寝食も安くし給はぬ御有様なれば、皆々恐入たるばかりなり、翌日は
   十二月朔日にて、かならず御登城あるべきなれど、前夜御病ありとことわらせ給へば、御登
   城もなし給はず、またあくる日は松向寺三齋君の御征當齋日にて、かならず寺参詣欫さ
   せ給はぬを、これも御代参を命じ給ひぬ、これ偏に上野に御出馬なきによりてなる
   べし、公務を重じ給ひし事、かくの如し
一、御代々の御征當齋日には、寒暑風雨の御厭ひなく、御墓詣怠らせ給ふことおはしまさず、
   其逮夜には必ず表居間におはしまして、如在の御慎ふかくぞおはしましける
一、櫨方は寶暦の度起されにしに、中葉より又水前寺に蝋志め所興り、御側御用と唱ふ、下吏
   の習ひ、各功を争ひ、櫨實をあつむるにつきて、水前寺の方を本櫨方に属せしめ給ひしかば、數
   年の弊害頓に止み、數量を定て、年々御側に納めしめらる、實に両金の法とは成りぬ、御

   在世中、郡吏等精力を盡して、墾田開きしも數多なりき、これら、上に賢徳の君ましまし
   ければなり
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