正保二年十二月二日三齋は八代で亡くなるのだが、愛息・立允(正保二年閏五月十一日死去)の子・宮松の行末を案じて、光尚に対して次のように頼み込んでいる。
尚々、宮松事、其元ニ置候而、存子細在之間、必々無用ニ候、
念可被下候、以上
為見廻、道家帯刀被差越、閏五月廿八日之書状披見候、温気之時分、我々気分
如何と被申越候、今程息災候間、可心安候、帯刀爰元ニ被付置候事、不入事候間
返申候、中務子宮松事、中務申置のことく、其方被肝煎可然様ニ可被仕立候、上
様へ宮松御禮申上以後、爰元へ下候様ニ可被肝煎候、恐々謹言
三齋
六月廿九日 宗立(ローマ字印)
肥後殿
御返事
正保三年卯月十七日付、幕府は光尚に対し次のような問い合わせをしてくる。
酒井讃岐守の書状である。
一、中務殿子息ハいくつニて候哉、母儀ハかろき人ニて候哉、此子息ハ京都にいら
れ候事三齋又貴様なとも前かと御存にて候哉、此度中書御はて以後御存候や、
承度候事
これに対し光尚は即返事をしている(卯月十七日 酒井讃岐守宛)
一、中務せかれ当年十歳ニ罷成候、此母之儀ハかろきものニて御座候、はゝせかれ
の儀まへかとハ拙者も不存候、今度中務病中ニ此せかれ儀承候、いまゝてハ京
都ニ罷在つるよしニ御座候、三齋も最前はそんしたるやうニ承候、中務相果候以
後存候由ニ御座候、此忰宮松儀中務相果候已後当御地へ罷下候、以上
三齋は宮松の存在を、中務がなくなった後に知ったようだと光尚は述べている。京都に在ったと言うのは、萩原兼従の養子となっていたとされる。兼従とは三齋の妹・伊也(吉田兼治室)の次男である。このようなことを果たして三齋は知らなかっただろうか。
宇土細川家の重臣・井門家の井門家文書「御三代記」には、立孝(宮松)について次のように記されている。
一、寛永十四丁丑三月四日戌ノ刻肥後國八代三ノ丸御誕生、御氏神妙見宮也、御若名宮松、帯刀、
其後丹後守、御名乗行孝、御母公慈廣院殿、元禄四辛未六月十日御年八十三御逝去、未ノ年也、
御法名雲岸性浄
一、御誕生之儀御妾腹故、三齋公御機嫌之程無御心許思召御隠便也、依之村上金左衛門江被御預
ケ被成、御部屋迄参上仕候者、長岡河内・左方与右衛門此両人迄折々御容躰奉伺候也
一、同十六已卯御歳之夏京都江御登り、其節村上金右衛門母子共二御醫師永井良安御供仕候、従立
允公萩原兼連卿江御縁在之二付、御預ケ被成候(中略)
一、正保二乙酉閏五月京都御發駕同月二十五日江府江御着座被遊候、萩原殿ニハ七ケ年程被成御座
候(以下略)
これによると行孝は三齋が京に登って留守の八代で生まれている。そして妾腹なるが故に三齋をおもんばかって、柳原兼連(兼従)に預けられた事が判るが、先の光尚の書状によるとそれを知ったのが立允の死後のことだというのである。柳原兼達は三齋の妹・伊也(吉田兼治室)の二男である。七年間預かったというが、よくぞ隠し遂せたものだと感心する。
肥後金春流中村家所蔵の文書「御稽古名附」(妙解院(忠利)様江御頼ニ而、御稽古被遊候大名様御名附)は、「午王ニ御血判御神文」を提出して、中村家の指導を受けた大名衆の名簿であるが、此の中に吉田三位兼従卿の名前も見える。
右兼従卿は、吉田二位兼治卿ノ御弟(ママ 実・二男)也、ニ万石(ママ)被進豊国大明神之御守
りニ御付被成、萩原三位兼従卿ト申候、(以下略)
ja.wikipedia.org/wiki/萩原兼従
いろいろぐぐっていたら、津田三郎著「秀吉英雄伝説の軌跡-知られざる裏面史」という著書を発見、「日本の古本屋」に注文した。豊国明神に関する萩原兼従のかかわりが書かれているらしい。
尚々、宮松事、其元ニ置候而、存子細在之間、必々無用ニ候、
念可被下候、以上
為見廻、道家帯刀被差越、閏五月廿八日之書状披見候、温気之時分、我々気分
如何と被申越候、今程息災候間、可心安候、帯刀爰元ニ被付置候事、不入事候間
返申候、中務子宮松事、中務申置のことく、其方被肝煎可然様ニ可被仕立候、上
様へ宮松御禮申上以後、爰元へ下候様ニ可被肝煎候、恐々謹言
三齋
六月廿九日 宗立(ローマ字印)
肥後殿
御返事
正保三年卯月十七日付、幕府は光尚に対し次のような問い合わせをしてくる。
酒井讃岐守の書状である。
一、中務殿子息ハいくつニて候哉、母儀ハかろき人ニて候哉、此子息ハ京都にいら
れ候事三齋又貴様なとも前かと御存にて候哉、此度中書御はて以後御存候や、
承度候事
これに対し光尚は即返事をしている(卯月十七日 酒井讃岐守宛)
一、中務せかれ当年十歳ニ罷成候、此母之儀ハかろきものニて御座候、はゝせかれ
の儀まへかとハ拙者も不存候、今度中務病中ニ此せかれ儀承候、いまゝてハ京
都ニ罷在つるよしニ御座候、三齋も最前はそんしたるやうニ承候、中務相果候以
後存候由ニ御座候、此忰宮松儀中務相果候已後当御地へ罷下候、以上
三齋は宮松の存在を、中務がなくなった後に知ったようだと光尚は述べている。京都に在ったと言うのは、萩原兼従の養子となっていたとされる。兼従とは三齋の妹・伊也(吉田兼治室)の次男である。このようなことを果たして三齋は知らなかっただろうか。
宇土細川家の重臣・井門家の井門家文書「御三代記」には、立孝(宮松)について次のように記されている。
一、寛永十四丁丑三月四日戌ノ刻肥後國八代三ノ丸御誕生、御氏神妙見宮也、御若名宮松、帯刀、
其後丹後守、御名乗行孝、御母公慈廣院殿、元禄四辛未六月十日御年八十三御逝去、未ノ年也、
御法名雲岸性浄
一、御誕生之儀御妾腹故、三齋公御機嫌之程無御心許思召御隠便也、依之村上金左衛門江被御預
ケ被成、御部屋迄参上仕候者、長岡河内・左方与右衛門此両人迄折々御容躰奉伺候也
一、同十六已卯御歳之夏京都江御登り、其節村上金右衛門母子共二御醫師永井良安御供仕候、従立
允公萩原兼連卿江御縁在之二付、御預ケ被成候(中略)
一、正保二乙酉閏五月京都御發駕同月二十五日江府江御着座被遊候、萩原殿ニハ七ケ年程被成御座
候(以下略)
これによると行孝は三齋が京に登って留守の八代で生まれている。そして妾腹なるが故に三齋をおもんばかって、柳原兼連(兼従)に預けられた事が判るが、先の光尚の書状によるとそれを知ったのが立允の死後のことだというのである。柳原兼達は三齋の妹・伊也(吉田兼治室)の二男である。七年間預かったというが、よくぞ隠し遂せたものだと感心する。
肥後金春流中村家所蔵の文書「御稽古名附」(妙解院(忠利)様江御頼ニ而、御稽古被遊候大名様御名附)は、「午王ニ御血判御神文」を提出して、中村家の指導を受けた大名衆の名簿であるが、此の中に吉田三位兼従卿の名前も見える。
右兼従卿は、吉田二位兼治卿ノ御弟(ママ 実・二男)也、ニ万石(ママ)被進豊国大明神之御守
りニ御付被成、萩原三位兼従卿ト申候、(以下略)
ja.wikipedia.org/wiki/萩原兼従
いろいろぐぐっていたら、津田三郎著「秀吉英雄伝説の軌跡-知られざる裏面史」という著書を発見、「日本の古本屋」に注文した。豊国明神に関する萩原兼従のかかわりが書かれているらしい。