津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

萩原兼従卿と宇土細川家

2010-02-22 15:18:25 | 歴史
正保二年十二月二日三齋は八代で亡くなるのだが、愛息・立允(正保二年閏五月十一日死去)の子・宮松の行末を案じて、光尚に対して次のように頼み込んでいる。

    尚々、宮松事、其元ニ置候而、存子細在之間、必々無用ニ候、
    念可被下候、以上
  為見廻、道家帯刀被差越、閏五月廿八日之書状披見候、温気之時分、我々気分
  如何と被申越候、今程息災候間、可心安候、帯刀爰元ニ被付置候事、不入事候間
  返申候、中務子宮松事、中務申置のことく、其方被肝煎可然様ニ可被仕立候、上
  様へ宮松御禮申上以後、爰元へ下候様ニ可被肝煎候、恐々謹言
                               三齋
       六月廿九日                   宗立(ローマ字印)
          肥後殿
             御返事

 正保三年卯月十七日付、幕府は光尚に対し次のような問い合わせをしてくる。
酒井讃岐守の書状である。
   一、中務殿子息ハいくつニて候哉、母儀ハかろき人ニて候哉、此子息ハ京都にいら
      れ候事三齋又貴様なとも前かと御存にて候哉、此度中書御はて以後御存候や、
      承度候事

 これに対し光尚は即返事をしている(卯月十七日 酒井讃岐守宛)
   一、中務せかれ当年十歳ニ罷成候、此母之儀ハかろきものニて御座候、はゝせかれ
      の儀まへかとハ拙者も不存候、今度中務病中ニ此せかれ儀承候、いまゝてハ京
      都ニ罷在つるよしニ御座候、三齋も最前はそんしたるやうニ承候、中務相果候以
      後存候由ニ御座候、此忰宮松儀中務相果候已後当御地へ罷下候、以上

 三齋は宮松の存在を、中務がなくなった後に知ったようだと光尚は述べている。京都に在ったと言うのは、萩原兼従の養子となっていたとされる。兼従とは三齋の妹・伊也(吉田兼治室)の次男である。このようなことを果たして三齋は知らなかっただろうか。

 宇土細川家の重臣・井門家の井門家文書「御三代記」には、立孝(宮松)について次のように記されている。
   一、寛永十四丁丑三月四日戌ノ刻肥後國八代三ノ丸御誕生、御氏神妙見宮也、御若名宮松、帯刀、
      其後丹後守、御名乗行孝、御母公慈廣院殿、元禄四辛未六月十日御年八十三御逝去、未ノ年也、
      御法名雲岸性浄
   一、御誕生之儀御妾腹故、三齋公御機嫌之程無御心許思召御隠便也、依之村上金左衛門被御預
      ケ成、御部屋迄参上仕候者、長岡河内・左方与右衛門此両人迄折々御容躰奉伺候也
   一、同十六已卯御歳之夏京都御登り、其節村上金右衛門母子共御醫師永井良安御供仕候、従立
      允公萩原兼連卿御縁在之付、御預ケ成候(中略)
   一、正保二乙酉閏五月京都御發駕同月二十五日江府御着座遊候、萩原殿ハ七ケ年程成御座
      候(以下略)
 これによると行孝は三齋が京に登って留守の八代で生まれている。そして妾腹なるが故に三齋をおもんばかって、柳原兼連(兼従)に預けられた事が判るが、先の光尚の書状によるとそれを知ったのが立允の死後のことだというのである。柳原兼達は三齋の妹・伊也(吉田兼治室)の二男である。七年間預かったというが、よくぞ隠し遂せたものだと感心する。
肥後金春流中村家所蔵の文書「御稽古名附」(妙解院(忠利)様江御頼ニ而、御稽古被遊候大名様御名附)は、「午王ニ御血判御神文」を提出して、中村家の指導を受けた大名衆の名簿であるが、此の中に吉田三位兼従卿の名前も見える。
     右兼従卿は、吉田二位兼治卿ノ御弟(ママ 実・二男)也、ニ万石(ママ)被進豊国大明神之御守
     りニ御付被成、萩原三位兼従卿ト申候、(以下略)
              ja.wikipedia.org/wiki/萩原兼従
いろいろぐぐっていたら、津田三郎著「秀吉英雄伝説の軌跡-知られざる裏面史」という著書を発見、「日本の古本屋」に注文した。豊国明神に関する萩原兼従のかかわりが書かれているらしい。
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細川家家臣・萱野氏

2010-02-22 09:00:27 | 歴史
 つい先ごろ、NHKが「歴史秘話ヒストリア」で古田織部を取り上げたのを受けて、ぴえーるさんがブログで系図をUPされた。あることに気づいてコメントを差上げた。それは古田織部の弟だと一部で紹介される、細川家家臣・茶道頭萱野甚斎の名前が登場しないことについてである。

 茶道肥後古流・古田家は江戸期を通じて萱野氏を称されたが、明治に至り本姓古田氏に戻された。家祖萱野甚斎は古田織部の弟だと一部で伝えられる。
■甚斎(隠斎) 肥後先哲偉蹟では次のように紹介している。(これが間違っていた)   
   萱野正的 古田織部正の弟、萱野伝左衛門姉婿なるをもって萱野姓とす。
        幼名左五郎、後剃髪して甚斎、隠斎と号す。古市宗庵に茶法稽古を受ける。
        寛永十九年御茶道、寛文元年茶道頭二百石。元禄二年隠居。宝永四年没。 
 細川護貞様の著「茶・花・史」の中の一文「熊本の古流・利休の秘伝を伝えた熊本の茶道」でも、上記の説明を引用されたらしい。

 これを読むとまさしく「正的=古田織部正の弟」なのだが、どうやら「正的=織部の弟の子(室・萱野伝左衛門姉婿)」が本当らしい。いろいろ調べてみると「織部の弟・重府の子」とある。ところがこの重府なるひとが判らない。
 又、西堀一三氏の論考「細川三齋と茶道」によると、「一世、名正的又名昌的、初称古田左五郎、又號甚齋、古田織部正重能弟左五右衛門某子、古市宗庵門人、肥後熊本藩茶道頭、宝永四年正月十五日没、年八十八、法名法了院持誠隠齋居士」とある。

  +---古田織部正重然(重能)
  |
  +------------重府(左五右衛門)---甚齋(古田左五郎正的)
                            ∥
                    +--------●
                    |
                    +---萱野伝左衛門

なぞの人物古田重府殿であるが、土岐家というサイトに古田家が紹介されており、ここに「重府重定子左五右衛門」とあった。織部正については、「重然重定子左介景安織部」とあるから、織部と重府は兄弟であることは間違いないようだ。さらに「萱野伝左衛門 正的伝左衛門嗣古田重府子左五郎萱野甚斎」とあり、正的殿も登場、どうやら素顔が見えてきた。

さて茶道肥後古流は、武田家(古市流)、小堀家、古田家の三家元で伝えられてきたが、古田家は活動を止められた。由緒正しい「利休正傳」の茶道は、残る二家の元に伝えられている。
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