■水道橋喧嘩(寛政元年)の際のことか
一、筑山五次郎先年江戸二て出火之節公義より火消衆御行
列を切たれハ挙二て散々ニ打擲し馬より取て引落そ此
事跡ニて公義より御吟味なり評定所ニ被召出御尋あり
しに五次郎答たるは私事近年■■ニ罷下些手あ
らく相成申候されは御火消衆此方行列ニ御乗懸被成候
故是ハ/\と申御袴の裾に少障ると覚へ候得者御
落馬ニて気の毒の御事ニ御座候と云しかハ彼方より無為
方済しとぞ
参考 :五次郎恭之(与右衛門) 御番方・朽木内匠組 高百石之御擬作
文化元年頃~ 小国久住郡代
文化五年頃~ 宇土郡郡代
名は恭之、所々の郡代を勤め、きわめて厳格の人なり。
天保十二年閏正月四日没す。年九十二。
■八代城の火事と木材の調達について
ママ
一、寛政 年十月二日暁天火ニて八代御城御本丸内并御櫓
茂一ケ所焼失是者主水殿居住の所より焼始しに其家士
松井門左衛門此様子を見て己か家ニ火を懸たり御城焼て
ハ主水殿身分難立間我家よりの出火ニ取成■切んと覚
悟せしが天火也と知れたる故其事ニ不及しと也扨御城御普
請者鎌田左一兵衛ニ被仰付享和元年成就此木材は多く スゲ、メマル
菅目丸の奥山より伐出たる此山ハ九州無双の深山ニて樅栂塩 現・山都町(旧・矢部町、菅、目丸)
地桂槻の教良木枝を雑へ樹木暗く澗泉飛流し■こと甚
難し東を菅と云西を目丸と云山の續は那須五家ニ至る矢
部の地も凡八九里其中衆嶺に秀るを國見嶽と云絶頂木
を伐出す然し二里斗の所也樵夫の通ふ岨道もさだかなら
す最嶮敷山なれハ橇を作て運出す其仕懸山の片岸高く
従■し岩角の少のかゝりに柱を立横木を結渡し根を大木の
本ニ結付る櫓普請の時の道懸の如し其上ニ八寸角の材木を
並へ如頓桟を作る事一里斗の間也其上を車ニ材木を積て
押行車を使フ者一人油をさす者一人くさびを■ル者一人
也勿論讒の木の上二て押損すれハ忽ち数十丈の谷底ニ 讒 → 儳(ふぞろいの意)の間違いか
落誠ニ命を的ニする業なり故是を修羅出しと云と
矢部の人語れり夫より緑川を下す也
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管理人注:昭和53年大坂藤井寺市の仲津媛陵古墳の陪塚の周濠から、一木のY字型の修羅が発見さ
れた。長さ8.8メートルという巨大なもので、ほぼ完全な形であった。
巨石や大木の運搬に遣われたものと推測されるが、「命を的にする業なり、故修羅出しという」
という話も共感できる。
一、筑山五次郎先年江戸二て出火之節公義より火消衆御行
列を切たれハ挙二て散々ニ打擲し馬より取て引落そ此
事跡ニて公義より御吟味なり評定所ニ被召出御尋あり
しに五次郎答たるは私事近年■■ニ罷下些手あ
らく相成申候されは御火消衆此方行列ニ御乗懸被成候
故是ハ/\と申御袴の裾に少障ると覚へ候得者御
落馬ニて気の毒の御事ニ御座候と云しかハ彼方より無為
方済しとぞ
参考 :五次郎恭之(与右衛門) 御番方・朽木内匠組 高百石之御擬作
文化元年頃~ 小国久住郡代
文化五年頃~ 宇土郡郡代
名は恭之、所々の郡代を勤め、きわめて厳格の人なり。
天保十二年閏正月四日没す。年九十二。
■八代城の火事と木材の調達について
ママ
一、寛政 年十月二日暁天火ニて八代御城御本丸内并御櫓
茂一ケ所焼失是者主水殿居住の所より焼始しに其家士
松井門左衛門此様子を見て己か家ニ火を懸たり御城焼て
ハ主水殿身分難立間我家よりの出火ニ取成■切んと覚
悟せしが天火也と知れたる故其事ニ不及しと也扨御城御普
請者鎌田左一兵衛ニ被仰付享和元年成就此木材は多く スゲ、メマル
菅目丸の奥山より伐出たる此山ハ九州無双の深山ニて樅栂塩 現・山都町(旧・矢部町、菅、目丸)
地桂槻の教良木枝を雑へ樹木暗く澗泉飛流し■こと甚
難し東を菅と云西を目丸と云山の續は那須五家ニ至る矢
部の地も凡八九里其中衆嶺に秀るを國見嶽と云絶頂木
を伐出す然し二里斗の所也樵夫の通ふ岨道もさだかなら
す最嶮敷山なれハ橇を作て運出す其仕懸山の片岸高く
従■し岩角の少のかゝりに柱を立横木を結渡し根を大木の
本ニ結付る櫓普請の時の道懸の如し其上ニ八寸角の材木を
並へ如頓桟を作る事一里斗の間也其上を車ニ材木を積て
押行車を使フ者一人油をさす者一人くさびを■ル者一人
也勿論讒の木の上二て押損すれハ忽ち数十丈の谷底ニ 讒 → 儳(ふぞろいの意)の間違いか
落誠ニ命を的ニする業なり故是を修羅出しと云と
矢部の人語れり夫より緑川を下す也
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管理人注:昭和53年大坂藤井寺市の仲津媛陵古墳の陪塚の周濠から、一木のY字型の修羅が発見さ
れた。長さ8.8メートルという巨大なもので、ほぼ完全な形であった。
巨石や大木の運搬に遣われたものと推測されるが、「命を的にする業なり、故修羅出しという」
という話も共感できる。