一村家の登場は、家祖・一村弥三兵衛が浪人ながら嶋原一揆に参加した事による。
弟・益田太兵衛は鉄炮にあたり戦死した。(益田家参照)
綿考輯録(巻五十)は、一村家召し出しの経緯を次のように記している。
有馬にて手首尾能働候、熊本ニて浪人御振廻之節弥三兵衛ハ洩候処、即晩為御内意
今日ハ思召有之候而之事也 御国を出候体ニ仕御国内ニ居候へと御懇之御意有之、諸
浪人不残罷立候跡にて有馬之功を以弐百石拝領
この一村家は後に650石となり、御鉄炮五十挺頭を勤めた。
もともとの家禄200石に開結(ひらきむすび)420石が加算されたためである。
「開結」とは、「御赦免開で開発した開地を藩に差上げて知行高に繰り込むこと」をいう。
宝永六年のこととされるが、420石は元禄九年の寺本兵右衛門の552石につぐものである。
単純に1石を収穫する為の農地面積を1反とするなら、420反(126,000坪)を開墾したという事になる。
自らの金を使い、沢山の農民を使ってのことであるから、大変な分限者であったのだろう。
藩への貢献も特筆されるものである。本知とも650石の家禄をもって明治にいたった。
弟・益田太兵衛は鉄炮にあたり戦死した。(益田家参照)
綿考輯録(巻五十)は、一村家召し出しの経緯を次のように記している。
有馬にて手首尾能働候、熊本ニて浪人御振廻之節弥三兵衛ハ洩候処、即晩為御内意
今日ハ思召有之候而之事也 御国を出候体ニ仕御国内ニ居候へと御懇之御意有之、諸
浪人不残罷立候跡にて有馬之功を以弐百石拝領
この一村家は後に650石となり、御鉄炮五十挺頭を勤めた。
もともとの家禄200石に開結(ひらきむすび)420石が加算されたためである。
「開結」とは、「御赦免開で開発した開地を藩に差上げて知行高に繰り込むこと」をいう。
宝永六年のこととされるが、420石は元禄九年の寺本兵右衛門の552石につぐものである。
単純に1石を収穫する為の農地面積を1反とするなら、420反(126,000坪)を開墾したという事になる。
自らの金を使い、沢山の農民を使ってのことであるから、大変な分限者であったのだろう。
藩への貢献も特筆されるものである。本知とも650石の家禄をもって明治にいたった。