2月16日のブログで細川宗孝の事件を書いた。即死状態で有ったろうと思われるが、生田又助が駕籠脇から声を掛けながら、平川門から龍口邸まで駆けかえった。
ありがたく嬉しい事に、ブログをご覧になったツツミ様が、わざわざ現場を歩かれてご報告をいただいた。(同ブログのコメントを御覧下さい)
龍口邸は大名小路にあるから大手門を出るとすぐである。歩いて10分ほどの距離らしい。
一方駕籠が出た平川門からは30分ほど掛かられたという。
homepage3.nifty.com/oohasi/hirakawamon.html
事件を聞きつけた龍口邸の藩士達が多く大手門に駆けつけたが、平川門からの下城と聞いてその動揺は如何ばかりであったろうかと察せられる。ゆっくり帰るべきか、寸秒を争って馳せるべきか又七達の思いも悩ましいものであったろう。若干18歳であったという又七の冷静な判断や行動は、後世に語り継がれているが、残されている文書を公開してその功績を称えなければなるまい。
「隆徳院様御変之記録也 生田又助覺書」の読下しを急いでいる。
ありがたく嬉しい事に、ブログをご覧になったツツミ様が、わざわざ現場を歩かれてご報告をいただいた。(同ブログのコメントを御覧下さい)
龍口邸は大名小路にあるから大手門を出るとすぐである。歩いて10分ほどの距離らしい。
一方駕籠が出た平川門からは30分ほど掛かられたという。
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事件を聞きつけた龍口邸の藩士達が多く大手門に駆けつけたが、平川門からの下城と聞いてその動揺は如何ばかりであったろうかと察せられる。ゆっくり帰るべきか、寸秒を争って馳せるべきか又七達の思いも悩ましいものであったろう。若干18歳であったという又七の冷静な判断や行動は、後世に語り継がれているが、残されている文書を公開してその功績を称えなければなるまい。
「隆徳院様御変之記録也 生田又助覺書」の読下しを急いでいる。