津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

已矣哉

2010-02-16 14:01:30 | 歴史
細川藩主宗孝公大難の事件についてである。 
延享四年八月十五日宗孝の供揃いが龍口邸を発したのは、五時(8時)であったことが「生田又助覚書」の書き出しに書かれている。事件の発生の知らせが小姓頭・生田又助らが控える「御側御次下乗」にもたらされたのは五時半(9時)だが、詳細ははっきりしないままである。城門は全て閉じられた。御玄関前で各藩の士が騒ぎごった返す中、御目付中山五郎右衛門が「細川越中守殿之御家来」と呼ばわり、途端に又助は走り出し途中帯刀を注意されこれを投げ出して城中に走り込んでいる。「隠見細倉記」が記す宗孝の疵の詳細は、死が避けられない状態である事を物語っている。城中で処置がなされ六人の奥医師が付き添った。宗孝は定め通り平川門から下城、即死の状態であったと思われるが、又助はお側にあってずっと声を掛けながら龍口邸へ足を急がせた。大手門からの下城であればそう遠くない距離であるが、平川門からは相当之距離がある。「やんぬるかな」供の方々の思いは如何ばかりであったろうかと、無念さが窺われる。家中の憤りも頂点に達したものと思われるが、宗孝の妹婿、柏原藩主織田信舊などが駆けつけ事後処理に奔走したとされる。
細川家の跡式については、生田又助が老中に確約の墨書を貰っている。
 宗孝は16日午前に死去(実際は即死状態)、17日熊本へ早打ちがたち、早飛脚も差し立て、26日には情報がもたらされた。即目付生駒某が出立、9月14日に江戸に着いた。
跡式は8月20日、弟主馬(重賢)が無事に継いだ。
8月23日、板倉修理切腹。同27日葬送。未亡人となった静證院に対し重賢は終生孝養をつくしたとされる。
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細川家家臣・生田氏

2010-02-16 11:19:21 | 歴史
 細川宗孝が江戸城中で、寄合衆板倉修理に人違いで刃傷に及ばれ不慮の死を遂げたが、事件を聞きつけ城内に走りこんだのが生田又助である。若干十八歳で小姓頭を務め、当日の登城の責を勤めた。其の事件の顛末は「生田又助覚書」により詳細である。事件後熊本に帰った又助は、一番に藤崎宮に参詣「君の御身一人をだに擁護し玉はねば、此後は敬ひ奉る事も候はじ」と、「神義絶」を申し入れている。硬骨の士である。
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 又助======又助======又助======又助======又助(御暇断絶)
           坂崎清左衛門三男    小坂半之允三男    上月十郎太夫二男    貴田角右衛門二男

 各代夫々名家から養子が入っている。家禄560石余の勲功の家も五代又助の代、御暇にて断絶した。

昨日ご紹介した「伊達家の秘話」でも「細川家の救済」という項が有るようだが、夫人が共に徳川宗直公女(同母姉妹)の関係にある伊達宗村公が、「細川公は未だご存命である。早く屋敷に帰りお手当てを」と細川家家臣に指示をされたという。又妹婿にある織田信舊公(柏原藩主)が事後処理に奔走している。又助は事件のさなかにあっても、細川家跡式について大老堀田越前守に掛け合い「御墨付」を給わったという。若干18歳、緒方氏記録は「誠に又助の働古の社稷臣とも申べき」と記す。天明四年十月二十二日没、七十五歳、禅定寺に葬。

 参考      
            伊達宗村
                ∥
           +----●
           |
   徳川宗直---+
           |
           +---友姫(静證院)
                ∥
   細川宣紀---+---宗孝===重賢
           |           ↑
           +---重賢・・・・・・・・・
           |
           +---姫
                ∥ カイバラ
            織田信舊(柏原藩主)
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