細川藩主宗孝公大難の事件についてである。
延享四年八月十五日宗孝の供揃いが龍口邸を発したのは、五時(8時)であったことが「生田又助覚書」の書き出しに書かれている。事件の発生の知らせが小姓頭・生田又助らが控える「御側御次下乗」にもたらされたのは五時半(9時)だが、詳細ははっきりしないままである。城門は全て閉じられた。御玄関前で各藩の士が騒ぎごった返す中、御目付中山五郎右衛門が「細川越中守殿之御家来」と呼ばわり、途端に又助は走り出し途中帯刀を注意されこれを投げ出して城中に走り込んでいる。「隠見細倉記」が記す宗孝の疵の詳細は、死が避けられない状態である事を物語っている。城中で処置がなされ六人の奥医師が付き添った。宗孝は定め通り平川門から下城、即死の状態であったと思われるが、又助はお側にあってずっと声を掛けながら龍口邸へ足を急がせた。大手門からの下城であればそう遠くない距離であるが、平川門からは相当之距離がある。「やんぬるかな」供の方々の思いは如何ばかりであったろうかと、無念さが窺われる。家中の憤りも頂点に達したものと思われるが、宗孝の妹婿、柏原藩主織田信舊などが駆けつけ事後処理に奔走したとされる。
細川家の跡式については、生田又助が老中に確約の墨書を貰っている。
宗孝は16日午前に死去(実際は即死状態)、17日熊本へ早打ちがたち、早飛脚も差し立て、26日には情報がもたらされた。即目付生駒某が出立、9月14日に江戸に着いた。
跡式は8月20日、弟主馬(重賢)が無事に継いだ。
8月23日、板倉修理切腹。同27日葬送。未亡人となった静證院に対し重賢は終生孝養をつくしたとされる。
延享四年八月十五日宗孝の供揃いが龍口邸を発したのは、五時(8時)であったことが「生田又助覚書」の書き出しに書かれている。事件の発生の知らせが小姓頭・生田又助らが控える「御側御次下乗」にもたらされたのは五時半(9時)だが、詳細ははっきりしないままである。城門は全て閉じられた。御玄関前で各藩の士が騒ぎごった返す中、御目付中山五郎右衛門が「細川越中守殿之御家来」と呼ばわり、途端に又助は走り出し途中帯刀を注意されこれを投げ出して城中に走り込んでいる。「隠見細倉記」が記す宗孝の疵の詳細は、死が避けられない状態である事を物語っている。城中で処置がなされ六人の奥医師が付き添った。宗孝は定め通り平川門から下城、即死の状態であったと思われるが、又助はお側にあってずっと声を掛けながら龍口邸へ足を急がせた。大手門からの下城であればそう遠くない距離であるが、平川門からは相当之距離がある。「やんぬるかな」供の方々の思いは如何ばかりであったろうかと、無念さが窺われる。家中の憤りも頂点に達したものと思われるが、宗孝の妹婿、柏原藩主織田信舊などが駆けつけ事後処理に奔走したとされる。
細川家の跡式については、生田又助が老中に確約の墨書を貰っている。
宗孝は16日午前に死去(実際は即死状態)、17日熊本へ早打ちがたち、早飛脚も差し立て、26日には情報がもたらされた。即目付生駒某が出立、9月14日に江戸に着いた。
跡式は8月20日、弟主馬(重賢)が無事に継いだ。
8月23日、板倉修理切腹。同27日葬送。未亡人となった静證院に対し重賢は終生孝養をつくしたとされる。