翁草巻十一 「板倉修理細川越中守を刃傷の事」
延享四卯年八月十五日、殿中大廣間四之間北縁に手負有の由■る、仍て詰合の御徒士目附
數輩、早速彼所へ馳行見之、惣身朱に染て誰とも見分難に付、姓名を問へば、細川越中守と被
答、相手尋るに不見知者成が、上下着し居る由を被申因茲方々捜し求るに、大廣間小便所
の廊下に抜身の脇差捨在候故、其の邊無限尋る處に、小便所の奥雪隠に、人影見えける儘、御
徒士目附御小人目附立かゝりて捉之、姓名を問へば、御旗元板倉修理 五千石 と答、其の意趣を
尋るに、先刻誰とは不知、小便所へ参候者、脇差を抜候様に見請候故、抜合せ切申候、其の後の
事は一切覚え不申候、乍去人を切り候へば遁れ難く存じ、懐中の鋏にて髪を切、脇差は捨候旨
申之、仍て先づ雪隠より引出し、蘇鉄の間の脇小部屋へ入れ置、御徒士目付附添罷在、大目附
石河土佐守、水野對馬守、御目付中山五郎左衛門、神尾市右衛門、土尾長三郎、横田十郎兵衛、橋
本阿波守、菅沼新三郎、八木十三郎、西の丸御目神尾伊兵衛、中島彦右衛門、安藤喜右衛門等
立會吟阥之處、右口上之通り、全く乱心と相見え候に付、即水野監物へ御預け、越中守は殿中
御間の内より、駕にて帰宅、早速御醫師武田叔安、外科西玄哲を御附、上使永井伊賀守を以て
御尋、猶又為上使堀田相模守被相越、御懇之上意にて、板倉修理義乱心にて如斯、仍て御預被
仰付候、追て御仕置之御沙汰可有之候、上より御差圖之趣有之候間、家中相騒間敷之旨な
り、同十六日越中守養生不叶卒去、跡式之義御存命之内、上使御書付を以て被仰渡候趣に随
ひ、不及願實弟細川主馬五十日十月十日之忌服届、御用番之老中本田伯耆守迄被差出、同二十三
日水野監物方へ、為検使大目附水野對馬守、御目附橋本阿波守、八木十三郎、御徒士目附御小
人目附差添罷越、板倉修理へ被仰渡、板倉修理義、去る十五日於殿中細川越中守へ手疵負
せ候始末、■乱心越中守右手疵にて相果候上は、切腹被仰付候者也、
一説修理事相馬弾正に意趣有之、九曜の門を見損じ人違にて如此と不知実否
右ニ付續之面々差控、板倉式部攝津守、板倉佐渡守、板倉帯刀、酒井雅楽頭、建
部丹波守并御目通差控堀田加賀守、板倉周防守、花房近江守、堀田兵部、依之板倉修理義、於水
野監物邸切腹、領地を除せらる、此の時細川家に功士三人有り、江府御城使某、此の変を聞と
ひとしく御城へ馳せ、警備の士を様々謀て、中の口に至り、馳上んとするを、各士停之、于時佩
刀を解て無刀に成り、主人介抱の為計に候と、其の場を兎角してかい潜り、越中守臥居らる
る處に参着して實は越州事切られしを、疵大切之儀にもてなし、乗ものへ乗せ、守護之し
て屋敷へ引取始末、無残所働きと、又大坂留守居某、此の飛檄到来すると、直に彼地に於て、一
萬両の用金を借り、其の頃は彼家は大家ながら逼迫の沙汰、世に流布して、用金調達の事中
中容易ならざるを、而も変に臨でかゝる早業、凡士の及ぶ處に非ず、扨國元にては、長岡対等
其の日遊猟に出居たりが、変の告を聞と否哉吾城へも不帰、其の場より遊猟の人數其の
儘にて出府の旅立す、仍て城に残る士共追々後れ馳に道中へ馳着て、主人を供奉し、夜を日
に継で何の駅とかやまで馳行處に、江府より追ての飛札、彼駅にて出会帯刀江府の御沙汰を
聞に、舎弟重賢へ定式五十日の忌を請候様被仰つぬと聞て、扨は心易しとて、夫より直に國
へ引返し帰むとかや、是等の功何れ歟大ならざるべき、長岡は流石長臣の器に當る歟、大阪
の某、斯る折から急事の手當容易の業ならず、此の何某が日ごろを思量るべし、江戸の士最
も機変巧なるもの歟 (了)
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芥川龍之助著「忠義」 www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/173_15216.html
延享四卯年八月十五日、殿中大廣間四之間北縁に手負有の由■る、仍て詰合の御徒士目附
數輩、早速彼所へ馳行見之、惣身朱に染て誰とも見分難に付、姓名を問へば、細川越中守と被
答、相手尋るに不見知者成が、上下着し居る由を被申因茲方々捜し求るに、大廣間小便所
の廊下に抜身の脇差捨在候故、其の邊無限尋る處に、小便所の奥雪隠に、人影見えける儘、御
徒士目附御小人目附立かゝりて捉之、姓名を問へば、御旗元板倉修理 五千石 と答、其の意趣を
尋るに、先刻誰とは不知、小便所へ参候者、脇差を抜候様に見請候故、抜合せ切申候、其の後の
事は一切覚え不申候、乍去人を切り候へば遁れ難く存じ、懐中の鋏にて髪を切、脇差は捨候旨
申之、仍て先づ雪隠より引出し、蘇鉄の間の脇小部屋へ入れ置、御徒士目付附添罷在、大目附
石河土佐守、水野對馬守、御目付中山五郎左衛門、神尾市右衛門、土尾長三郎、横田十郎兵衛、橋
本阿波守、菅沼新三郎、八木十三郎、西の丸御目神尾伊兵衛、中島彦右衛門、安藤喜右衛門等
立會吟阥之處、右口上之通り、全く乱心と相見え候に付、即水野監物へ御預け、越中守は殿中
御間の内より、駕にて帰宅、早速御醫師武田叔安、外科西玄哲を御附、上使永井伊賀守を以て
御尋、猶又為上使堀田相模守被相越、御懇之上意にて、板倉修理義乱心にて如斯、仍て御預被
仰付候、追て御仕置之御沙汰可有之候、上より御差圖之趣有之候間、家中相騒間敷之旨な
り、同十六日越中守養生不叶卒去、跡式之義御存命之内、上使御書付を以て被仰渡候趣に随
ひ、不及願實弟細川主馬五十日十月十日之忌服届、御用番之老中本田伯耆守迄被差出、同二十三
日水野監物方へ、為検使大目附水野對馬守、御目附橋本阿波守、八木十三郎、御徒士目附御小
人目附差添罷越、板倉修理へ被仰渡、板倉修理義、去る十五日於殿中細川越中守へ手疵負
せ候始末、■乱心越中守右手疵にて相果候上は、切腹被仰付候者也、
一説修理事相馬弾正に意趣有之、九曜の門を見損じ人違にて如此と不知実否
右ニ付續之面々差控、板倉式部攝津守、板倉佐渡守、板倉帯刀、酒井雅楽頭、建
部丹波守并御目通差控堀田加賀守、板倉周防守、花房近江守、堀田兵部、依之板倉修理義、於水
野監物邸切腹、領地を除せらる、此の時細川家に功士三人有り、江府御城使某、此の変を聞と
ひとしく御城へ馳せ、警備の士を様々謀て、中の口に至り、馳上んとするを、各士停之、于時佩
刀を解て無刀に成り、主人介抱の為計に候と、其の場を兎角してかい潜り、越中守臥居らる
る處に参着して實は越州事切られしを、疵大切之儀にもてなし、乗ものへ乗せ、守護之し
て屋敷へ引取始末、無残所働きと、又大坂留守居某、此の飛檄到来すると、直に彼地に於て、一
萬両の用金を借り、其の頃は彼家は大家ながら逼迫の沙汰、世に流布して、用金調達の事中
中容易ならざるを、而も変に臨でかゝる早業、凡士の及ぶ處に非ず、扨國元にては、長岡対等
其の日遊猟に出居たりが、変の告を聞と否哉吾城へも不帰、其の場より遊猟の人數其の
儘にて出府の旅立す、仍て城に残る士共追々後れ馳に道中へ馳着て、主人を供奉し、夜を日
に継で何の駅とかやまで馳行處に、江府より追ての飛札、彼駅にて出会帯刀江府の御沙汰を
聞に、舎弟重賢へ定式五十日の忌を請候様被仰つぬと聞て、扨は心易しとて、夫より直に國
へ引返し帰むとかや、是等の功何れ歟大ならざるべき、長岡は流石長臣の器に當る歟、大阪
の某、斯る折から急事の手當容易の業ならず、此の何某が日ごろを思量るべし、江戸の士最
も機変巧なるもの歟 (了)
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芥川龍之助著「忠義」 www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/173_15216.html