津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

細川家家臣・興(沖)津氏

2010-02-07 13:18:36 | 歴史
 「風説秘話」で、沖津九郎兵衛のことを書いた。関連して沖(興)津家について書いて置きたい。
沖津家の初代は弥五右衛門・景一で、九郎兵衛はその嫡男で二代目である。嶋原一揆に於いて陣没した。跡継ぎがなく弟・弥五右衛門が三代目と成ったとされる。三代目・弥五右衛門は忠興に殉死し、綿考輯録などでは過大と思えるほどの頁を費やして、その行為を誉めそやしている。森鴎外はこのことを「興津弥五右衛門の遺言」に書いた。
            www.aozora.gr.jp/cards/000129/files/45209_30640.html
 鴎外は九郎兵衛のこの事件については知らなかったのではないか、まったく触れられていない。弥五右衛門の殉死は、主命で長崎に出かけた折「名香木」の購入にあたり、意見を異にする僚友・横田清兵衛を殺してまでこれを求め、忠興の意をもって命ながらえた事による。兄弟共に人を殺めた事になる。

 九郎兵衛、弥五右衛門の弟・作太夫(三代)の名前もいろいろな文書に登場するが、こちらも後に絶家している。

 初代弥五右衛門の継室の連れ子忠太(四男)は、後寺本氏を名乗り別家を起こした。

 森鴎外の著作は、弥五右衛門が末弟又次郎(六男)宅にて、嫡子に宛てて書かれた形を取り構成されている。
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風説秘話 ・・ 5 (沖津九郎兵衛 vs 米田家)

2010-02-07 11:58:55 | 歴史
一、忠利公御代沖津九郎兵衛とやらん四尺斗の長刀を差たる
   か法花(華)坂ニ而小便を志たるま監物殿の馬乗通り懸り小尻を

   蹴沖津振返て何者そと咎しに馬乗却而悪口せし故
   沖津抜打ニ二ツに斬殺たり夫より今のの後四角迄来       榭 = 時習館の東・西榭のことか?
   りしに早此事監物殿江聞へ討手を向らる様子ニて大勢
   門前ニ集り既二可押懸躰なれ者沖津引返シて大頭志水
   伯耆殿江行 今の小笠原大部殿屋敷 只今ケ様/\の訳ニて手打仕候処監物
   殿より討手を被向様子ニ見へ候故差図を受可申ため参
   上仕候と云しか伯耆殿聞て早々御通りし得とて沖津
   を座敷江通し扨有合家来共に下知して門を打せ鉄
   砲を持て長屋の屋根に上らせられし中早監物殿の者共ハ
   沖津伯耆殿江馳込たりとて志水殿門前江押寄監
   物申候沖津何某手前家来を討て其元江罷在由早々

   御渡可被成と云しか者伯耆殿返答ニ御家来不届之儀御座
   候而沖津九郎兵衛討果申候然るを相渡申候儀決而不相成
   申候と云れしかとも監物殿家来共猶ニ強而御渡可被成と
   云募しか者伯耆殿被申たるそ一應不相渡旨理り候を強而
   受取度候て何様共被致候へ被見通鉄砲をも賦置候条可被
   致覚悟と云れしか者監物殿家来共ハ俄の事ニて着込
   抔せし者も無く勿論鉄砲も不持者兎や角と■く猶豫し
   たる中使を馳て主人の方得云遣ハせしかハ監物殿怒られ
   自身行向て請取べしとて大騒動なりしかハ此事早
   尊聴ニ達シ俄ニ沼田殿を召て被仰渡しハ監物者家来の
   敵ニ討手を向候由尤左も可有事也然るに若伯耆様討れ

   候ハゝ監物か討手ニ者汝を差向候間早々其覚悟致居候得との
   上意也沼田殿■なから御請申上退出し斯成行てハ以の
   外の大事也と直ニ監物殿江内々ニて此由云送られしかハ監
   物殿聞て我忠義を忘たりとて大ニ後悔し早速手の者
   共を被引取たるとなり


  大変失礼だが、この事件は大変面白い。法華坂は大手門に至る登城口である。そこで立小便をしていたというのだから、その行為も如何かと思う。結果として 「沖津氏と大頭・志水氏」 vs 「家老・米田家」 という構図と成ってくる。このことを耳にした忠利の処置は、沼田氏を通して忠利の考えがもらされる事を前提にしているのだろう。大事に至らずに先ずは良かったが、米田家家臣は殺され損となり、いささか解せぬ話しでは有る。
「細川家家臣・沖(興)津氏」を次回ご紹介する。
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風説秘話 ・・ 4 (蓑田左五右衛門兄弟の事-2)

2010-02-07 08:29:27 | 歴史
一、或云蓑田手討の節岩間か柏原家来を帯刀にて渡せしを
   世上の評判ニ御侍ニ慮外せし者を帯刀にて渡す然しし
   からさる由なりと能々思ふに我一大事之時命にもかはる
   家来なれ者主従之間者勿論至而親しかるへき事也理を
   乱せハ太(ママ)切の御侍に慮外せし者故上ニ對しても無刀二て
   渡すへけれと情を以て云ヘハ我命ニも替る■徒を一旦
   御侍ニ慮外せし罪は重けれとも刀迄取上ケ人ニ渡て刺せる
   事ハ如何ニも思はれし監物殿の志水殿江討手を向られし
   も一旦我家来を憐む情より出たり岩間か取計も此儀
   を不持と然し不可言と云候又云蓑田手討之節乙次等も當

   人なれハ先初鑓を突度もの也左五右衛門先の鑓を突ても
   乙次に慮外せしという趣忘如何乙次者先を突せて危により
   て左五左衛門助太刀せしと云と宜しからん
一、蓑田手討の後勝木瀬助か兄弟敵討にて可被様風説あり
   依之左五右衛門より頭方迄右之通の風説も御座候若敵討様に
   参候ハゝ弓鉄砲を以仕留可申候此段御届仕候由申候処此儀者
   頭より被差留由也又此風説ニ付蓑田宅江親類朋友毎夜
   来て自然之時可加勢と用心せしと也是ハ弥■々事然ハ不
   知とも餘り覚悟通たる事也若大勢様ニて来らハ時ニ當て
   弓鉄砲ニて防事も有へし兼而届置者餘りの事也又親類
   様毎夜来るも親切こかしの方ならんか若敵討ニ来たるを

   聞付ハ勿論馳来り可相救兼て斯用心強きと之向の聞耳も却
   て手弱様ニあらんと也
一、同年八月蓑田兄弟江被仰私之趣

                   蓑田乙次
    乙次儀當二月於途中柏原新左衛門家来勝木瀬助と
    申者より手込ニ逢申候ニ付難差通追手打果候段其分之
    儀勿論ニ候処兼々血気ニまかせ人を相悔作法不宣儀間ニ
    有之候段相聞へ(己ニ十・畢)竟右躰之處より此節も手込に逢
    候儀も有之候段致出来候時と相聞不埒之至ニ被
    思召上候依之往々不■召仕旨被仰出之

                   蓑田左五右衛門
    左五右衛門弟乙次儀當二月於途中柏原新右衛門家来
    勝木瀬助と申者より手込ニ逢難差通相果候段者其分
    之儀勿論ニ候処兼々人を相悔作法不宜儀間ニ有之段
    (己ニ十・畢)竟兼々教育不宜処より右躰之儀も致出来且追而    
    於門内瀬助を打果候節も一躰仰山なる様子之儀ニ相聞候
    不嗜之事ニ被思召候上依之左五右衛門儀逼塞被
    仰付旨御仰出候之

   同日岩間恰八ツ後於御奉行所蓑田左五右衛門儀柏原新
   左衛門家来を打果候節之始末不取計之由ニ而御役被差除たり
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