かって住まいしていた本妙寺下の花園地区には、細く蛇行する川筋が残っていた。これがかっての井芹川であったらしい。「祓川」とよばれ、段山(ダニヤマ)から妙解寺(細川家菩提寺)前に蛇行しながら流れていた。現在は全く流路を変えている。本妙寺の西側の島崎地区には高禄の家臣の野屋敷があったらしいが、古地図を見るとこの「祓川」に沿うような形で道がある。本妙寺の参詣もこの道が使われていたのであろう。この川筋の道には杉の木が植えられていたらしく、杉塘(スギドモ)という地名が残っている。妙解寺に近い所、我が家の菩提寺でもある禅定寺の裏側には「鐘ケ淵」という深さが三間ともいう大きな淵があって、水路をつかっての物流の集積地であったのだそうだ。これも昭和28年の大水害の泥捨て場になり、現在では小さな流れが名残を留めている。
新幹線のコンクリート橋脚が目の前に迫り、妙解寺をはじめ連なるお寺に眠られる方々も、ゆっくりとはいかぬご時世となった。過日友人のお宅を訪ねた折、久しぶりに川筋に車を進めたら、もう菜の花が咲き始めていた。私の大好物のセリを摘んだ場所でもある。
祓川の名残の土手や芹なずな ひょいと口を突いた傑作(・・?・・)である。
新幹線のコンクリート橋脚が目の前に迫り、妙解寺をはじめ連なるお寺に眠られる方々も、ゆっくりとはいかぬご時世となった。過日友人のお宅を訪ねた折、久しぶりに川筋に車を進めたら、もう菜の花が咲き始めていた。私の大好物のセリを摘んだ場所でもある。
祓川の名残の土手や芹なずな ひょいと口を突いた傑作(・・?・・)である。