BSプレミアムで中村勘三郎主演の映画「やじきた道中 てれすこ」を観る。TVで映画鑑賞などいつしたことかあまり記憶にないが、約二時間ほど釘づけで拝見、勘三郎という人を失ったことの重大さを考えさせられる。それにしても達者な役者が顔をそろえて豪勢なものではないか。これが映画の醍醐味というものだろう。いろんな方が勘三郎の死を悼んでおられるが、残念の極みとしか言いようがない。合掌
BSプレミアムで中村勘三郎主演の映画「やじきた道中 てれすこ」を観る。TVで映画鑑賞などいつしたことかあまり記憶にないが、約二時間ほど釘づけで拝見、勘三郎という人を失ったことの重大さを考えさせられる。それにしても達者な役者が顔をそろえて豪勢なものではないか。これが映画の醍醐味というものだろう。いろんな方が勘三郎の死を悼んでおられるが、残念の極みとしか言いようがない。合掌
東京やなぎ句会の句集「友あり駄句あり三十年」(1999発刊)を読んで、私は独学の俳句を始めた。そのメンバーの一人変哲こと小沢昭一氏が亡くなった。
入船亭扇橋(光石)、永六輔(六丁目)、江國滋(滋酔郎)、大西信行(獏十)、小沢昭一(変哲)、加藤武(阿吽)、桂米朝(八十八)、神吉拓郎(拓郎)、永井啓夫(余沙)、三田純市(道頓)、柳家小三治(土茶)、矢野誠一(徳三郎)といったその道の重鎮が一堂に会しての句会のありさまが書かれてあって、何と楽しそうなものと感じ入ったのである。江國滋氏、神吉拓郎氏、三田純市氏、永井啓夫氏などが鬼籍に入られ、これらの仲間を追うように小沢昭一氏が続かれた。
2009年7月17日東京やなぎ句会の「五・七・五 句宴四十年」が発刊されたが、私が手に入れたのは第三刷であった。人気が高かったことをうかがわせている。
それぞれのお人柄がうかがえる句が並び、読んでいて思わず笑い出してしまうような句会の情景が紹介されている。
■■結社などという大仰なことではなく、自由に句に親しむこんな句会があれば私も参加したいと思ったりする。
今でこそ久保田万太郎に関する著作や句集を取り揃えている私だが、これこそ小沢昭一氏が「心酔して止まない人」という言でミイラ取りがミイラになった次第である。
まだ尻を目で追う老や荷風の忌
亀に水かけて残暑の見舞とす
釣銭をこぼして拾ふ夜寒かな
貧にして孝子出づとや蕎麦の花
水洟や昔は毒のありし人
寒釣や同じ顔ぶれ同じ場所
打ち水や平次が謎を解く時分
ついぞ見ぬ猫も来ていて軒の恋
春暁の宿の飯たく匂いかな
衣ずれの袴よりたつ淑気かな
こうして遺作を並べてみると、意外と真面目な句が多いことにきづく。なかにはとんでもない句もあり彼らしい・・・
陰干しの月経帯や猫の恋
早すぎるという御歳ではない八十三歳なのだが、残念の極みである。合掌
播磨屋さんが送って下さるメールマガジン「家紋Worldニュース」では、今回は「武蔵七党」が取り上げられていた。
https://mail.google.com/mail/ca/u/0/#inbox/13b81c8b0aabe636
母の実家T家(旧姓・猪俣氏)も「武蔵七党」だとされるので、興味深く拝見した。このなかに県北荒尾に在った小代氏が含まれている。
鎌倉幕府を支えた小武士集団は各地に地頭職を得て分散している。小代氏は玉名郡野原庄(荒尾)の地頭職となり、元寇の来襲から南北朝、戦国乱世のなかその荒波の中に翻弄されていく。佐々成政代の肥後国一揆にあたっては大坂に在ったため運よく処罰を逃れ、加藤清正の治世に当たってはその配下となった。加藤家没落後は細川家家臣となり明治に至ることになる。
播磨屋さんの「武家家伝--小代氏」によると、その家紋は「団扇に三つ盛亀甲」だとされる。
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/syoudai.html
母の実家T家は「剣菱亀甲紋」である。共通の出自を伺わせている。
又、細川家家臣にもその名がある「生越氏」「真下氏」も「武蔵七党」であることを勉強した。(感謝)