忠興と弟・興元の決別は、慶長六年の末二人の父幽齋が病も癒えて初めて小倉を訪れた際の席に興元出席しなかったことにより発覚した。
不審に思った忠興の元に翌日留守居の者が、興元の書状を持参し出奔を伝えてきた。末弟・孝之が興元や松井康之などと同様の処遇を与えられたことなど、また日頃の意見の相違などが納得できなかったらしい。忠興の怒りは相当なものであったらしい。
その後父・幽齋からも仲直りをするようにとの斡旋もなされたらしいが、忠興は受け入れていない。
慶長十三年の春、駿府において大御所・家康の前で二人は和解したとされている。
ところがここに、元和二年七月十日内記(忠利)宛て忠興書状(129)に於いて、大御所(家康)の命により忠興・興元兄弟の和解が整ったことを知らせている。家康の死はこの年の四月十七日である。この斡旋がいつの日であったのか興味深いところである。
藤泉(藤堂和泉守高虎)玄番(玄蕃興元)と我々との間之儀、其方江被尋候由候處ニ、
能候通被申候由候、それにても不苦候、乍去 大御所様ゟ中能仕候へと被 仰出ニ付、
背 御諚事不成候而、先能分ニ仕候、重之ある事ニ候間、可被得其意候事
「中能仕候へ=仲ようしそうらえ」という言葉が面白い。興元はこの年に、常陸谷田部6,300石の加増を得て16,300石となっている。 そして元和五年三月十八日54歳で死去した。家康の斡旋はまさに時を得ていたというべきである。
その後忠興は興元の子女の結婚問題などに親しく関わっている。その後本家との関わりも深まっていくことになる。