面の御薙刀の作ハ備前義光也、光尚君御家督後初而御入国之節、御花畑に新敷小書院を御構へ候て 今の鹿の御間なり 三齋君
を御祝儀ニ御振舞被成、御名乗字と壱同ニ御拝領被成たる光忠の御腰物を三齋君へ被進候、三齋君よりハ其座にて面の薙
刀被進候、其以後面の薙刀御取返し、光忠も御返し被成候時、御祝儀ニ被進候物御返し候事気味も悪敷可被存候間、何にて
も肴を祝儀ニ給候へと被仰進候故、光尚君より鶴を御進上候なり、光忠の御刀当時まで御指料、面之御長刀ハ丹後守殿より
年月不分明 御代々今以宇土ニ御伝り、私云、宇土にての申伝ニ、綱利君御代御借受被成候而、影之写被仰付候と也、但御天守
ニ当時も面之御長刀とて有之候、作ハ備前国住人具正近と有、御下国毎ニ御着座之朝、御花畑に御取寄、鹿之御間ニかゝり
候ハ右影の御写なるへきか、又一色義有御討果之事を関原御陳田辺御籠城の時ニ混し合て怪しく、色々記し置るも有之 関東備
考なとなり 偽妄現然たるによりこゝに出し不申候
扨相図のことく牧丞大夫 一ニ武次と有ハ誤りなり、此尉大夫ハ左馬允親也 を石川山 宮津より壱里程、一ニ狼烟嶽 に被遣、火の手を揚る、米田助
右衛門ハ火之手遅キ事を怪ミ、普請場より引返し、石川山の尾崎鈴か峠を西より登りしに、真下梶之助元重 親沢井対馬守ハ将軍義
輝公へ仕、御生害之時同戦死、梶之助は大和国真下ニ居住、一色之招ニより来て家老職となる 何として宮津を切抜候哉、弓木を心掛、東より登り峠
にて米田に行逢候、米田と真下は常に睦かりけるか、真下此時も詞をかけ、今日の次第とかういふに及はす、他人の手にかゝら
んより貴殿と死んこそ本望なれとて刀を抜く、助右衛門は鑓にて互に馬上より挑ミ合、やかて真下を突通す、真下懇に城中の事
を頼ミ死し、米田も落涙して領掌いたし候
一書、梶之助、米田ニ突れ、馬上より鑓をたくり来るを、ひたもの振候ヘハ、馬より落るを米田か家人木崎縫殿 大炊か子 首を
取へきとて走寄るを、真下臥なから木崎か膝ノ口を切割候、され共ひるます飛掛り首をかき手拭にて膝を巻、馬にて弓木に
赴き候、此手疵にて行歩不自由に成、其後有馬ニ入湯して痛愈(ママ)候処ニ、堺ニ知る者有て彼か許へ行、塩風呂に入り、
疵口より血はしりて死すと云々
又一書、真下突かれなから米田か鑓をたくりよせて来るを、あなたこなたに振て捨けれバ、どうと倒れて首を取らる、一反程
の間血にまミれしと云々
又一書、真下も鳥井と同しく弓木にて働、米田と鑓を合せしとも有、
又一書、城中ニ有あハす鬨に驚、蒐来り米田と鑓を合、討死と云々
助右衛門一言の契約もたしかなく、真下か妻子弟四人を育ミ置、男子七之助を御家人となし三百石被下、後七兵衛と云、其子孫
今の真下喜角なり、元重か姉は忠興君の妾となる、式部寄之ハ此腹也 名はさい、後長岡勘解由延元ニ嫁す、五百石被添遣候 梶之助弟沢
村小八郎重包ハ義有の親類武者小路殿ニ使者ニ罷越、於京都丹後騒動之様子聞付早速罷下候、途中ニ助右衛門より真鍋甚
六と申者を以梶之助家内を引取候事とも具に申越候ニ付、小八郎も助右衛門方ニ来り、後に弐百石被下候、子の代ニ至、寄之
ニ御附被成、松井家ニ被遣、彼家来となる
一書、沢井小八郎重包関原之役従軍し、於会津表力戦し、忠興公の御感状を賜る
今度於会津表一戦之砌、玉川権六打取無比類
働誠以神妙也、仍丹州伽佐郡於豊村百石令加
増事、弥可抽軍忠者也
慶長五年十一月 忠興 御判
沢井小八郎殿
其後大坂の役にも相従ひ、度々褒美を得て、都合三百五拾石を領し、豊州小倉におゐて病死すと云々 考ニ第一慶長五年
会津表にて一戦といふ事いふかし、然ハ右感状御本書拝見せされハ、御判物たる由申す共疑ハし、重而可考
玄蕃殿・康之・立之等ハ相図等の火の手を見るとひとしく、弓木の城の追手搦手より二手に分れて押寄る、城兵思よらす周章さ
わきなから俄に門を閉て堅く守る
一書、義有討れし事を聞、家老鳥井作五右衛門弓の木の城に楯籠ると云々