寛永六年十一月八日、後水尾天皇は女一宮(明正天皇)に譲位する。その背景については紫衣事件や天皇の御子の死にからむ幕府の介入が言われている。細川忠興はこれらのことを隠すことなく率直にとらえて息・忠利に伝えている。この書状は研究者にとっては第一級資料であり、いろいろな論考に引用されている。「大日本近世史料・細川家史料-三」から全文をご紹介する。
その後も忠興の報告が続いている。
■禁中之儀も何と成共主上(後水尾天皇)次第と 仰のほせらせ候由候 如様之事も國師へ御談合と聞之申候 物毎ニ浮世之邪魔ニなられ候と見之申候
笑止 案外之儀共候事 (寛永七年正月廿四日 787)
■爰元珎敷儀一切無之候 上方ゟハ 禁中之儀ニ付 相國様(秀忠)可被成御上洛と仰のほせらるゝ由申来候へ共 爰元ニハ一切其沙汰なく候 何事も 知
不申事候間如何候ハんや 替儀候は可申候 (寛永七年正月廿七日 788)
■禁中之儀ニ付 板防州(板倉重宗)近日被下之由候 又 國師(以心崇傳)を何之 御用共なく京へ被成御上せさうニ大炊(土井利勝)殿ゟ申来由 直ニ被
語候 定而板周(板倉重宗)口を聞召 國師を添テ被成御上へき哉と推量申候 若左様ニ候は 禁裏ニハ國師上洛相 叡慮ニ申間敷と 笑存候事
(寛永七年二月五日 789)
■禁中向之儀 其後何共無御沙汰候 國師へ時々 禁中之様子御談合と聞之申候 能様ニは不被申上躰ニ候 にか/\敷儀と存候 兎角太平記之時村雲
僧ニ存候事 (寛永七年三月十四日 797)
■板周防(板倉重宗)も先月著府候へ共 禁中之事有無之御沙汰無之候 國師上洛之事も今ハさたなく候 乍去 我々いつかたへも不出ニ付不存候 今之躰
ハ 主上女一宮様へ御位ゆつらせられ いか様何そ替事も出来候ハんやうニ皆存候へ共 此方ゟ何之御かまいも無之ニ付 禁中むき手を御うしない候様
やうニ相見候由 京都ゟ申来候事 (寛永七年三月十七日 799)
■禁中即意(位)之儀ニ 大炊殿・雅楽殿来月時分上洛之由沙汰申候 板倉(重宗)ハ 院御所為御作事 はや被上候 此儀慥ニ存たると申人之口を聞申
候 如何候ハん哉之事 (寛永七年四月九日 803)
(書き込み中)