先に寛永11年6月に 将軍家光上洛 について書いた。忠利は吉田に宿を取りたいと思ったようだが、京の入り口・膳所の警備のためここに留まった。
一方三齋についてである。寛永10年6月11日の忠利宛書状(1113)に、京都の宿についてに記述がある。
(前略)
一、来年上方にて、何も居申候所被渡候為御奉行、大嶋茂兵衛(義唯)・関兵部(氏盛)・横山土佐(興知)・井上淡路(庸名)
被上ニ付、其方ゟ宿請取もの被上候由尤候、其次而ニ、我々居候所聖護院、又烏丸殿のうら、其近所にて町屋も被渡
候は、請取候へと被申越由候、永信濃殿(永井尚政)・永日向殿(永井直清)へ、祝儀之人近日上せ候間、其時聖護院・
烏丸殿うら・同町屋之儀申のほすへきと存候處、早々申のほせられ、可相済と大慶此事候事
一、いつものことく、京中ニは大名衆被居間敷様ニ沙汰仕候由、江戸留守居ゟ申越候由、左様ニ可有之と存候、此前ハ大
炊殿心付ニ付、烏丸殿うらニ居申候へ共、此度之儀ハそれも成間敷かと存候、若不成候は、吉田之内ニ我々居申さうな
る所候は、それニ居可申候、左様ニ候は、小性とも臺所人置候所、十軒計も入可申間、内々其心得候而給候、前之こと
く、烏丸殿うらニ居申候へは、申所無之候、恐々謹言
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また、13日の書状(1114)には次のようにある。
一、京いつもの宿ニ、我々居候事成候ヘハ、申所もなく候、若不成時ハ、吉田へ可参間、下々置候家、十軒計入可申と申事
ニ候、又自聖護院ニ家を立候而成共居可申候、其家之出来候間ハ、吉田ニ居可申候、恐々謹言
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この後のことについての情報は見つけ得ないでいる。三齋の京都屋敷については「吉田」と記されていることが多いが、これは妹・伊也の嫁ぎ先吉田兼治
の吉田神社周辺だと思われる。この時期建てたれたものであろうか・・・・