津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

ススキ原の小用

2012-12-17 18:26:21 | 徒然

 悪友の話だから脚色があるかもしれず、保証の限りではない。
10数年前、悪友の友人がそれぞれ夫人を伴い7組ほどで温泉の旅をしたという。どうやら黒川温泉らしい。
その帰り道、貸切の小型バスが夕日に映えるススキ原に行きかかったとき、友人の一人が声を上げ停車を乞うたという。
何事とみんなが首を回すと最後尾にいた友人が、「トイレタイム」と声をあげ失笑を買ったそうな。
処が本人と思いきや、なんとご夫人だったそうで、皆がなんとも間の悪い顔になって、夫人を送り出したという。
夫人はバスを降りると後ろ側からススキ原に入り用を済ませたらしいが、旦那なる人物は気が気ではないらしく最後尾の窓からススキ原を睨んでいたらしい。
しばらくするとそのススキ原がさやとゆれて、ゆっくりと歩を進ませてバスに帰られたそうな。
そして一言、ススキもいいけど萩だったらもっとよかったかも、と平然として言われたそうだ。

その後日談、悪友たち男どもが集まった際、「大だったのか、小だったのか」と旦那を問い詰めると、「小だよ」とのご返事・・・・
「ススキもいいけど萩だったらというのが判らん・・」とさらに聞くと、どうやら夫人は太宰治の「斜陽」に出てくる一場面、「おかあさまの小用」になぞらえてのことだったらしい。

と聞いても私にはよく判らず「斜陽」を読む羽目になった。

お母さまは、つとお立ちになって、あずまやの傍の萩のしげみの奥へおはいりになり、それから、萩の白い花のあいだから、もっとあざやかに白いお顔をお出しになって、少し笑って、「かず子や、お母さまがいま何をなさっているか、あててごらん」とおっしゃった。
「お花を折っていらっしゃる」と申し上げたら、小さい声を挙げてお笑いになり、「おしっこよ」とおっしゃった。 

なんとも・・・・

 

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「しほ」という娘

2012-12-17 15:55:05 | 徒然

                                     

 大日本近世史料-細川家史料の人名一覧に、「細川立允の女か」とする「しほ」なる人物がある。ところがこの人物は、どの資料を見ても立允(立孝)の周辺には見受けられないのである。 

  寛永十七年九月廿七日三齋は八代において忠利と共に口切のお茶を楽しんでいる。
そして「おしほ」なる娘に逢いその可愛らしいことを愛でて書状(細川家史料-1060-)を送っている。

       「おしほ事初而あい申候處ニ一段とあいらしく御座候間何よりもの御慰と奉存候(略)」

同日付の三齋書状(1660)では、「今日ハ来儀候て口切目出度存候」の書き出しで、種々認めている。
その場でもいろいろ語られたことであろうが、書状として残すべく認めたものであろうか、その尚々書に於いて「しほ」のことに触れている。

       「今日ハしほへいろいろ懇ニ被仕候、満足申、ぬしも事之外嬉しかり候、以上」
    
又、十月四日の忠利書状(同-1069-)では、書状に添えて忠利がおしほに椎を送ったのであろうことが伺える。

       「此しい(椎)、當国之内ニ而ハ、少大キニ御座候間、おしほ所へ送申候、存之外いたいけニ御座候間、何よりも之御慰と奉存候」

そしてその書状に対する三齋の同日付返書(1664)では、嬉しくてそごうを崩したような三齋の有様が見て取れる。

       「次ニしほかたへ椎一箱被遣候、事之外満足かり、一期ニかようの大キなる椎見たる事もなく、懸御目候時、
        御禮可申と申候て進之候へと申候、事之外之さいまぐりものにて、おかしく存候」 

おしほという娘を中にして、微笑ましい会話がやり取りされているが、先に記した如くこの人物の特定ができないでいる。
おしほを、立允の娘とするには無理があるように思う。三齋・忠利の会話の中に登場するような人物が、細川家系譜に登場しないことは有りえないのではないか。私は三齋の養女 お三(佐舞・後細川行孝室)ではないかとも考えているのだが、如何だろうか。

細川忠興養女佐舞、三(三齋ノ一字ヲ遣サレシモノ)、実ハ加来佐左衛門女、初名せい、元禄十一年戊寅二月廿三日卒、享年六十四(六十一)
これからすると三は寛永十二年の生まれであり、寛永十七年当時は五・六歳でありこの風景にぴったりだと思うのだが・・・・・ 

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