津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

見え見えの間者

2012-12-15 13:45:02 | 史料

 明日は史談会の12月例会、現在は花岡興史先生に部分御舊記・城郭部から、寛永十七年あたりの八代城の修復工事にかかわる書状・案文などを勉強している。隠居ながらも直接幕府に対し書状を発するなど、三齋の行動にいささか迷惑気味な忠利の言動など、原文の読み下しから解説など詳細な解説をいただいている。

予習・復習ではないがいろいろ読んでいたら、寛永十七年十月九日の三齋から忠利にあてた書状(1668-抜粋)に面白い記述を見つけた。

                  高力摂津守殿之者之由申候て、爰元へ、綿・漆の様成物かいニ参候由申候、人を付候て見
                  申候へは、一向かいにてハ無之候、爰元石垣之事、又其方爰元へ口切ニ被参候事も、宿主
                  ニ尋、それゟ其地へ参由候間、不入儀と無其儀候、次而ニ候間申候事

高力摂津守とは高力忠房、当時は島原城主(40,000石)である。つまりは、島原の商人と称する人物が八代に入り、石垣普請のことや忠利の行動等を尋ね調べているというわけである。尾行を付けようと思ったがいらぬ事と思い行わなかったというのである。
高力氏は奏者番などを勤めた人物であり、当然のことながら幕府の命を受けての行動であろう。
すっかり見破られているのだが、「すておけ」とばかりに三齋さまは悠然としておられる。 

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浅野内匠家来口上

2012-12-15 00:32:25 | 史料

               あと数時間で討ち入りです。今頃四十七士の皆さんは蕎麦でも食べて、腹ごしらえといったところでしょうか。

                                     

               吉良上野介様御門ニ立置引取被申候書付写

                                         浅野内匠家来口上

                             去年三月 内匠儀伝奏御馳走之儀 吉良上野介殿江含意
                             趣罷有候処 於 御殿中 当座難遁儀御座候歟及刃傷候
                             不弁時節・場所働 無調法至極ニ付 切腹被 仰付 領地・
                             赤穂城被 召上候儀 家来共迄畏入奉存 請 上使御下
                             知城地指上 家中早速離散仕候 右喧嘩之節 御同席拘留
                             之御方有之 上野介殿討留不申 内匠末期残念之心底 家
                             来共難忍仕合御座候 対高家御歴々家来共挟鬱憤候段
                             憚奉存候得共 君父之讎共不可載天之儀難黙止 今日上
                             野介殿御宅へ推参仕候 偏継亡主之意趣志迄御座候 私
                             共死後 若御見分之御方御座候者御披見奉願 如斯御座
                             候 以上
                                                 浅野内匠頭長矩家来
                                  元禄十五年極月日        大石内蔵介
                                                          此外四十五人 
       

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