明日は史談会の12月例会、現在は花岡興史先生に部分御舊記・城郭部から、寛永十七年あたりの八代城の修復工事にかかわる書状・案文などを勉強している。隠居ながらも直接幕府に対し書状を発するなど、三齋の行動にいささか迷惑気味な忠利の言動など、原文の読み下しから解説など詳細な解説をいただいている。
予習・復習ではないがいろいろ読んでいたら、寛永十七年十月九日の三齋から忠利にあてた書状(1668-抜粋)に面白い記述を見つけた。
高力摂津守殿之者之由申候て、爰元へ、綿・漆の様成物かいニ参候由申候、人を付候て見
申候へは、一向かいにてハ無之候、爰元石垣之事、又其方爰元へ口切ニ被参候事も、宿主
ニ尋、それゟ其地へ参由候間、不入儀と無其儀候、次而ニ候間申候事
高力摂津守とは高力忠房、当時は島原城主(40,000石)である。つまりは、島原の商人と称する人物が八代に入り、石垣普請のことや忠利の行動等を尋ね調べているというわけである。尾行を付けようと思ったがいらぬ事と思い行わなかったというのである。
高力氏は奏者番などを勤めた人物であり、当然のことながら幕府の命を受けての行動であろう。
すっかり見破られているのだが、「すておけ」とばかりに三齋さまは悠然としておられる。