津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

寛永九年の今日の三齋さま

2012-12-19 15:09:38 | 史料

 寛永九年の今日三齋公は、孫娘・烏丸禰々姫を伴って大津に入られた。鶴崎から豊後路をへてのことである。
同日の忠利宛書状(1795)を見ると「今日午刻、大津迄令著候、車返、存之外大キ成坂にて候へ共、路地一段能通候、可心安候」「如此ふり候は、明日は此地ニ逗留可申候、禰々病後、未ちからつかれす候條、寒ク候は参間敷と存候事」と記す。
この日は雨であることが判るが、新暦でいうと一月廿八日であり寒さも厳しかったと思われる。又「昨日之返事今日日出時分、内之牧ゟ一里此方にて、披見候事」とあるから、十八日は内牧の御茶屋に泊まり、日の出とともに赤水から二重峠(車返)に上りお昼時分に大津に着いている。

豊後路の中川領(久住までの道)の道の悪さに閉口したらしく、又久住は丹波の谷の狭い所に似ていると記す。一方肥後領は湿地に茅が敷かれていてよい道だと喜んでいるが、下々の作法が悪いとし清正(加藤)の法度のせいだと決めつけている。「其方領分の道、一段能候て、下々まてくつろき申候」とそろそろ熊本入りする安堵の気持ちが表れている。

廿日は雨も上がったのであろう熊本に着いている。忠利と共に熊本襲封の祝いの盃を交わしたことであろう。 

 

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細川家家臣--谷(七郎左衛門)家

2012-12-19 10:01:18 | 地図散歩

 

    堀右近----+--(谷)七郎左衛門・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・→細川家家臣・十三郎家
     ∥     |
     ∥     +--(谷)忠兵衛・・・・・・・・・・・→絶家カ不明
     ∥
  +---●姉
  |
  +--谷衛友----+--衛成---衛清 衛政より分知2,000石・仕家光 
             |
            +--吉長
            |
            +--衛勝 元和三年卒 25歳 
            |
            +--衛政-------------------------------------------------------------→丹波山家藩主家
            |
            +--衛長(内蔵允)1,500石・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・→細川家家臣・助九郎家(1,000石) 
            |
            +--衛冬 衛政より分知1,500石・仕家光 25歳にて卒

 

 七郎左衛門・忠兵衛の父・堀右近は越後春日山城主・堀忠俊に仕えた。同姓であるところを見ると一族であろう。
右近亡き後兄弟は母の弟にあたる丹波国山家藩主谷衛友に養われた。その故をもって谷姓を名乗った。
真源院様御代御侍名附には、谷七郎左衛門は300石御鉄炮頭衆、弟忠兵衛は1,000石御鉄炮頭衆とある。 
七郎左衛門家は明治に至っているが、忠兵衛は「寛文元年以来病気乱心ニ而知行被差上又者依願御暇被遣候面々名付之覚」には、
貞享二年七月二十七日「乱心」(1,100石)として書き記されている。時は綱利代であるが、何があったのか知りえないでいる。 

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◇本383 手書き 【細川越中守書】 肥後國熊本藩 細川綱利

2012-12-19 09:16:36 | オークション

                                       ◇本383 手書き 【細川越中守書】 肥後國熊本藩 細川綱利

                          ◇本383 手書き 【細川越中守書】 肥後國熊本藩 細川綱利
 

 案内からすると綱利公に関わる遺事のようですね。応札してみたい気もしますが、これは高くなりそうな気配です。
現在51件の応札、2,680円、今晩10時がタイムアウトのようですが・・・・・ 

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