寛永九年の今日三齋公は、孫娘・烏丸禰々姫を伴って大津に入られた。鶴崎から豊後路をへてのことである。
同日の忠利宛書状(1795)を見ると「今日午刻、大津迄令著候、車返、存之外大キ成坂にて候へ共、路地一段能通候、可心安候」「如此ふり候は、明日は此地ニ逗留可申候、禰々病後、未ちからつかれす候條、寒ク候は参間敷と存候事」と記す。
この日は雨であることが判るが、新暦でいうと一月廿八日であり寒さも厳しかったと思われる。又「昨日之返事今日日出時分、内之牧ゟ一里此方にて、披見候事」とあるから、十八日は内牧の御茶屋に泊まり、日の出とともに赤水から二重峠(車返)に上りお昼時分に大津に着いている。
豊後路の中川領(久住までの道)の道の悪さに閉口したらしく、又久住は丹波の谷の狭い所に似ていると記す。一方肥後領は湿地に茅が敷かれていてよい道だと喜んでいるが、下々の作法が悪いとし清正(加藤)の法度のせいだと決めつけている。「其方領分の道、一段能候て、下々まてくつろき申候」とそろそろ熊本入りする安堵の気持ちが表れている。
廿日は雨も上がったのであろう熊本に着いている。忠利と共に熊本襲封の祝いの盃を交わしたことであろう。