長宗我部 (文春文庫) | |
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長宗我部元親の末弟・親房の直系の子孫、長宗我部友親氏の著作である。長宗我部オフィシャルサイト もご覧あれ。
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さて細川家家臣にも長曽我部氏の流れがある。
■町源右衛門、長曽我部元親の二男(旧名吉良左京進)である。
元和二年江戸にて忠興に召出され、三百石。長曽我部の「ちょう」を、町と改めたて名字とした。のち加増百石。江戸留守居役をつとめたが、
三齋の勘気を蒙り暇を出された。その原因は光尚の正室(彌々)の急死について、病状の詳しい報告がなされなかった事によるとされる。
三齋に心配をかけまいとの光尚の配慮であったともいう。光尚の死により再度の召出しはなく、堀田正盛に仕えた。(五百石)
寛永十四年正月十七日付け、光尚宛て忠利書状(抜粋)
【中屋敷之町源右衛門・神戸喜右衛門并宮本ニ(次)郎大夫此三人之儀、
従 三齋様御ふち被放候由、不届様子被仰出候通、書中得其意候事】
■源右衛門の嫡子、町三右衛門尉は忠利に召出され、四百石。江戸留守居。江戸にて病死。明治に至る最後の当主は源弥(16人扶持)
■源右衛門の二男・町市之允。忠利代、寛永二年豊前国にて召出さる。知行二百石。十二年百石加増、都合三百石にて使番に任ぜらる。
兄三右衛門の死により、江戸留守居を勤める。その後奉行役などを勤め、極老により役儀御断を願い免され、御番方に召加えらる。
寛文六年十月病死。明治に至る最後の当主は市郎(300石)
また、長宗我部元親の伝記「長元記」は、長宗我部氏旧臣・立石正賀により書き残され上妻文庫・他に所収されている。