過日の熊本日日新聞に、「横島干拓の歴史知って 保存顕彰会がDVD制作」という記事があった。
かっての横島村、現在の玉名市横島地区はまさに干拓によって出来上がったと云っても過言ではない。
細川家が肥後入国がすぐに干拓が始まったとされるが、特に家老・有吉家の力によるところが大きい。
詳細は「玉名市の干拓遺産」に詳しいが、営々と続けられてきた事業は広大な農地となり一村を興すに至った。
先人の偉業をたたえ又新しい時代に忘れ去られることのないようにとの、保存顕彰会のDVD制作は有意義である。
過日の熊本日日新聞に、「横島干拓の歴史知って 保存顕彰会がDVD制作」という記事があった。
かっての横島村、現在の玉名市横島地区はまさに干拓によって出来上がったと云っても過言ではない。
細川家が肥後入国がすぐに干拓が始まったとされるが、特に家老・有吉家の力によるところが大きい。
詳細は「玉名市の干拓遺産」に詳しいが、営々と続けられてきた事業は広大な農地となり一村を興すに至った。
先人の偉業をたたえ又新しい時代に忘れ去られることのないようにとの、保存顕彰会のDVD制作は有意義である。
二ノ丸御屋敷
明れバ文政七ツの年、初春の寿きも目出度クおわらせ給ひ、日を追ッて成長給ひしが、弥生の中比より風の御心地になやませ給ひ、乳さへ上り兼ネ給ひけれバ、附キ奉る人達医師なども心つくし、間ニはおも湯を進め奉りなどしけるうち、やゝ乳をもきこし召サるゝやうになり給ひ、四月の比はいよいよ御快クましましける。かく常にかわり給ふ折ニも御機嫌あしくせわしき事ましまさず。かくおわしませしかば、もり奉る人々も困じぬる事なく、皆其ノ事をのミ云て悦びあえり。日にそひて人々をも見知り給ひ、君の御方へ参りぬる人は、わけて御親しミも深く、勤に出ぬるおりはいつも御悦ビありて手を出させたまひ、その人に抱かれましましける。かくむつび(睦)給ふにより、人々いそぎて勤に出ぬる程にありぬ。又、はじめて御まへに出し人にも心をおかせ給ふ御気色ましまさず。かゝる人には必ず物たまわりたき御ありさまに渡らせたまへば、何にても其人に物とらせぬれバ、ことのふ悦びましましぬ。次々の人々さへかく渡らせ給へば、まして大殿に御親しミの御有様たとへいはんかたなし。二ノ丸の御屋形も営ミ果しかば、(文政七年)六月六日に大殿と同じく花畑の御住居よりわたましせさせ給ひ、御祝ひの式も脈々済せ給ふ。何れに住たまわんもゝさまにこそ渡らせたまはんと思ひ奉りしに、住ミなれ給ひし方に帰らまほしう思ワすさまにて、一ト日二タ日は何となふ御気しきよからず。やや日を経てぞ住なれ給ふ。其ノ比までは、いまだ独りしての御立居ハなりかね給ひしが、九月の比にや御遊びものゝ乗ける角なる臺の有けるをちからになし給ひて独して立せられ、臺をよぢて廻らせたまひ、思し召かけなくも御心に任せ給ひしさまニて、笑ひ悦バせ給ひけれバ、大殿をはじめ奉り、皆々つどゐ見奉りて、悦びあえること限りなし。この程よりハ、御膳も三度づつ上りぬる様になりて、御たけものびさせられ、いとゞ愛きやう増サせ給ふ、おりふし御庭は大殿の御あとより入ラせられ草木の花実をバことにめで給ひて、いまだ御詞にハいでたまハざりしがども、御手をもてかしこくもさまざまにおしえさとし給ふにて、思し召シぬる事どもを人々よく察し奉りぬ。
この冬も立て文政八ツの年に移りぬ。君早クも三ツにならせ給ふ。元朝より御祝の数々事おわりて、やや日もながくあたゝかに成り行クまゝに、日ごとに御庭の内を遊び廻らせ給ふ、殊に向ひなる御庭にハ色々の梅を数しらず植エ渡されて、花の盛りなる比にハ、錦をさらせるごとく匂ひ四方にミちみちてたとへいわん方なし。君殊ニ愛デ給ひて、長閑なる日にハ、かならず此ノ梅園に遊び給ふ。かゝる折にハ、大殿も同じく入せ給ひしに、後れさせ給ふことありて、しばらく待せ給へなど有けるおりハ、いつもおとなしう待タせ給ひて、御供ましましける。すべて大殿よりの仰セとあれバ、何事もいなミ給はず、よく其ノ旨にしたがひ給ふ。日をおひて萬ズにさとくならせ給ひしに、あゆませ給ふことのおそかりしかば、近き渡りハさらなり、遠き国の神佛にさへ祈りを懸ケぬ。附キ奉る女たちハ百度千度の数しらず、かわるがわるあゆミをはこび祈り奉りし、其かひにや二足三足づゝあゆませ給ふ、其さまを見奉りて、上下のよろこび手の舞イ足の踏ムことを覚へず。君生れさせ給ひてより、むずがらせ給ふこと少く、灸治をバ月ごとになし給ひしに、よくきこし召シわけられて、医師より点参らせぬる折迄も替らせ給ふ御気しきなく、灸終らせ給へば早くも常のさまに直らせられ、大殿の御前ニ出給ひ、菓子・持チ遊びやうのもの参らせ給へば、喜び戴きましましける。
花畑の御屋形より兄君入ラせ給ひぬる折ハ、ことのほかたのしミ思し召ス御気しきニて、表と奥のさかいなる杉戸のほとりに出たまひ、おとなしやかに御すわりありて待チ給ふ。
兄君通らセ給ふおりハうやうや敷御時宜あり、持せ給ひぬる御手遊びの品、兄君より参らせ給へば、ことのを悦びましまして、傳の人に見せたまひ、老女などへハ、其ノ居る方へ持チ行キ置キ給ひて、一ツ一ツにふいちょうあらせ給ふ。扨その後は住ミ給ふ方江持チ帰り給ひて御遊びものにしたまひぬ。大むね御心の附カせ給ふこと、かゝる事ども多くましましぬ。
兄君御庭江入ラせ給ふおりニは、御手をひかれさせたまひて、したしミ給ふさまの愛々しくおわしませし事、言葉につくし難し、かくましましければ、兄君ニも殊にめでいつくしみ給ひけり。
此年(文政八年)九月の末、兄君(齊樹)熊本を発駕有ラせたまひし後、大殿御徒然のおりニはよく伽し慰め奉り給ふにより、此君にまぎれさせ給ひ日を送りましましぬ。ある時、大殿御庭より帰り給ひて御草臥ありけるを御覧じ付セられ、夜のもの(夜具)取出させ休ませ給ふやうに御世話あり、大殿休ミましましけれバ、御夜着の上より三度あまり撫させ給ひて、夫よりぞ御部屋にかえり遊びたもふ。
霜月廿一日御髪置の御式あり、廿三日ニ御宮参りあらせられ、御帰りの折、槇崎なる御門葉の住居に立寄ラせたまひ、家内の人々にも御逢ヒあり帰らせ給ふおり、大殿北側なる高き二階に登らせ給ひて御待チありけるを、縄手の道より御覧じて、御駕の内より御手を出したまひ、飛立てよろこばせ給ふ。同じく廿五日ニハ此度の御祝として御能あり、下も下もまでも御酒たまわりさゞめきて祝し奉りぬ。御屋形より近かりけれバ、発星山(加藤清正墓所・本妙寺)より小山田の御腰懸に折々入らせ給ふ。大殿部屋より御出あれバ、殊のふ御悦びありて、山むかへさせ給ふ。小山田の御庭にてハ、竹の子、梅ようのもの、くさぐさ取ラしめ給ひていつもよふ御遊びありぬ。朧月の末御年忘の興にとて、御能ありける時、氷室の間の狂言に立ならびて、雪こうこうとはやしけるさま、ふと御心に叶ひ夫よりして狂言を好ミ給ふ。かゝりしかば、大殿の近習の人々慰め奉る為とて、狂言のまなびして、いと賑やかに舞かなでけるに、はじめのほどハ言葉も定まらず、ことにおかしき事どもありて笑ひどよみけるを、君いと興じさせ給ひて御覧じ給ふ。其ノ比までハ、いまだ御詞にハ出させ給はざりしがども、何の狂言をと好ミ給ふおりニは、さまざまの御しかたにて人々よふわかりぬるやうにさとし給ふ。三本の柱といふ狂言を御好ミなりしおり、御側の人々うかがゐ知れざりけれバ、御指を打違へ給ひて柱を打チちがえたるさまをなして、さとし給ひし事などありて、萬に聡明にましましける事みなみな感じ奉りぬ。
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