かつては自らが家老・松井興長から痛烈な諫言を請けた綱利、時代が変わり延宝の頃あの浅野内匠頭に諫言を呈した文書や、是に関する平野権兵衛への文書、また内匠頭の性格を伺わせるような返書がある。赤穂義士研究家の佐藤誠氏は、これは細川家にのみ残り、改易となった浅野家の資料はほとんど残っておらず大変貴重な史料だとされる。氏は「延宝頃」とあるこの資料を、延宝八年(1680)と比定して間違いなかろうとされる。それは、内匠頭が延宝八年八月に叙任していることからである。寛文七年(1667)八月生まれであるから、この時期内匠頭は14歳であり、江戸城中で吉良上野介に刃傷に及ぶ元禄十四年(1701)の20年ほど前の話である。
浅野内匠頭殿へ御異見之書物
◆ 綱利公諫言の書
覚
一萬事御きすいに候間せめて三年ハ諸事御たしなみ被成采女殿(先代藩主・兄長友)
被成候に不相替被成候ハゝ可然候事
一年寄共と諸事御談合候而意見をも御聞可然候事
一増尾平内之介・松井庄之介不行義者ニ候間此方へ御預ヶ可被成候事
一木村伊折(ママ)是又此方へ御預ヶ可被成候事
一傳丞・八大夫・市兵衛是も預り申度候御同心無之候ハゝ御知行所へ被遣御置御尤候事
一連歌ひしと御止可被成事
一座頭ともふつと御よせ被成間敷事
一朝ね又はむさとしたるもの共と夜放御無用の事
一萬御不養生被成間敷事
一人振舞可被成事
一金銀むさと御遣被成間敷事
一御せいもんむさと御たて被成間敷事
一うつらすき被成候儀御尤候事
右条々急度御止被成御尤存候
◆ 平野権兵衛宛、綱利書状 平野権兵衛は平野長政の事であろうと思われる。
覚
一内匠殿召こめ申置小性何方へも御預ケ候か扶持を御はなし候へと先度之ことく申候へ共
御同心なく候つる たとい如何様之儀ニても安藝殿・因幡殿我等者采女殿御ミやうたいと成
候て一言申入由右より申合参候つる故随分かずすくなく三ケ条ニて申入候理つまり候事を
何かと御申候間中/\以来者何事を申候共成かね御同心弥有間敷候 丹後殿只今死かゝ
り被居候人へ何と返事可申候哉此返事之所を内匠殿へ御尋候て可被下候 少も丹州へ物
かくし申候事ハ不罷成候事
一道安被参申候ハ被召籠小性知行へ御やり候て召こめ可被置由御申候由被申候つる 此
分可然候哉 我等一人之分別ニてハ御返事成かたき事ニ候条阿藝殿稲葉殿へ御尋候て
可然候
一彼者何方へも御預ヶ候事不成子細候者何とて不被仰聞候哉聞候たる事にて候者其段丹
後殿へも物語可仕候 我等なと申候て他人ニて候へとも随分御ため可然候様ニと存事ニ
候 されとも御きゃくしんニ候は阿藝殿稲葉殿ヘハ彼者何方へも御預ヶなき子細可被仰事
ニ候 又御両人へも御申なき事ハ何か御座候ハんや此段分別ニ及不申候故何とも我等な
としあんニおよひ不申候にか/\敷存候以上
極月廿七日 細越中
平権兵衛殿
◆ 浅野内匠頭書状
一権平殿迄達之御書付之通拝見仕候 小性之儀子細も不被仰聞預ヶ候へと計ニてハがて
ん不参候間被仰 聞可被下候
一小性其身悪キ者と被思召候ハゝせいばい可仕候 又彼者故不形儀なると思召候ハゝ遠
のけ萬事之儀ニかまい不申家中之儀何事もさゝわりニ成不申候様ニ可仕とせいしヲは仕
可進候
一右之者預ヶ申儀ハ罷成申間敷事
極月廿七日 浅野内匠頭(花押)
細越中様
まいる
浅野家家中でなにやらやっかいな事件が起きている。最初の文書は内匠頭に対する綱利の諫言の書であるが、是を読む限りでは内匠頭の行状にたいし綱利の懸念が見て取れる。綱利の浅野家に対する立場がよく判らないが、平野権兵衛に対する書状ではことの進捗が見えない状況での綱利の諦めにも似た気持ちが吐露されている。内匠頭の返書は大変かたくなである。14歳の若き藩主自身の考えとも思えず、家中長老を含めての浅野家の総意であろうが、いささかつっけんどんな物の言いようが異様ではある。
この三通の書状に関する浅野家内のいざこざが、はたしてどのような事によるものであるのか検証に及ぶ史料は全くないとされる。
どなたかご存じ寄りの方が居られれば、ご教示たまわりたいと節に思うものである。