津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

メラ爺

2013-07-07 18:54:35 | 徒然

                                                                 

 

近藤健氏(佐藤誠氏共著)の著作「肥後藩参百石米良家 堀部弥兵衛の介錯人・米良市右衛門とその族譜」 が大方の評判を得ている。

八年にも及ぶ取材・執筆の成果であるが、そのきっかけとなったのは近藤氏の大叔父・メラ爺(米良周策氏)を主人公としたエッセイ「介錯人の末裔」であろう。日本エッセイストクラブ編の’08年版ベストエッセイ集「美女と云う災難」に取り上げられた。 

メラ爺の人となりがよく書かれており、ほっこりとした温かさが伝わってきた。「肥後藩参百石米良家」が発刊されてからメラ爺も時の人に成られたらしい。
メラ爺のふるさと・北海道様似の「広報さまに」に登場された。89歳におなりだとか、ますますのご健勝をお祈りしたい。 

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荒尾の荒木一族の家紋

2013-07-07 10:01:22 | 家紋

                                           


荒木村重の二男(村政)の子孫とされる、熊本県荒尾市の荒木一族の家紋「鞠挟み紋」である。荒木家では「六つ挟み紋」と読んでおられるらしい。じつはアメリカ・ボストンから家紋についてお問い合わせをいただき、ここ一週間ほどばたばたした。ご子孫Nさまに連絡をしたところ、おばあ様の紋附の写真をお送りいただいた。

手元に石川道子氏の論考「熊本県荒尾市の荒木氏系図」のなかに、この紋についての解説がある。
「七良神社ノ幕寄進紋所ハ七曜星ニテ此丸ヲ除キテ真しん影をとりて所謂荒木家の六つ挟みといへり」とある。
七曜紋と鞠挟み紋は全く関係ないと思われるが、それはさておく。

荒木村重が信長に反旗を翻すのは天正六年の事である。荒尾の荒木家が九州肥後國の荒尾庄の小代下総守の滞客になったのは天正四年だとされ、村政は十三歳であったとされる。村重に何かの思いがあっての事であったのだろうか。

そのご子孫がボストンにお住まいだという。父祖の地荒尾との交流が深まることを願っている。 

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「梅の薫」耇姫様の事 (四)

2013-07-07 07:28:38 | 史料

                                                                            

 

 大殿責馬を御覧じける折にハ、毎も御後の方より御覧あり、御近習の人をも乗せ給ひ、よろこび興じたまひぬ。又、藤崎(八旙宮)の祭りに馬の駈けぬるを御覧じける後は、そのまなび(真似)して遊び給ふ。常にかく雄々しき事どもを御好みありぬ。大殿の近習の人々狂言のまなびして慰め奉りしに、其ノ労をむくゐ給ふ御心にや一曲おわりぬれバ、おぶうをたえよ(あ欠・与え)とて酒たまわり、あるひは、扇・持遊びのたぐゐを持チ出シ給ひて、銘々にあたへ給ひぬ。其ノ中に公の事ありて、その席を退きぬるものあれバ、いつ迄も帰り来るを待チ給ひ与へつくしていと御心ちよげに座を立チ給ふ。
又、大殿の御膳さゝげぬるおりは、人々同じく持チはこびし給ひけるが、さゝげぬるにも下げぬるにも、物ミなはこび終るまでハ、幾度となく行キ通わせ給ひ、残りなくおわりぬるさまを御覧じはてゝ、其ノ後ぞ帰らせ給う。君常に物に倦ミ給ふ御気しきなく、かりそめの事にも終りを全し御心ばへありて、かゝる事ども多くましましき。
 君御庭ニて遊び居り給ひしおり、杉野某江戸より下りぬとて御前に出しに、折節何もたまわるものなかりしかば、御手近なる芝を取てたまわりぬ。又ある時、狂言御出けるに、君御庭に出させ給ひ、築山に榊の実ありけるをとらせ給ひけれバ、何になし給ふやと尋ネ奉れバ、是ハ狂言のじいに遣すと仰セあり、又、盆踊り御覧じけるおりにハ、召上られけるあん(餡)を分ち給ひて、踊するものにあたへよと命じ給ひしことなどありて、皆ひと御恵みの御心ざしのほどをありがたがり奉りぬ。又、御駕にて御庭を廻らせられ御茶屋に上り給へば、ちい(爺)におぶうを賜るとて、いつも御駕のものへ御酒給わりぬ。人をいたわり労を慰めたまふハ常の御事にて、ほど遠き(身分)末っ方のものまでも、へだてなくしたまひしかば、伝へ聞ク人迄も浅からぬ御恵ミのほどを感じしたゐ奉りぬ。
 大殿の御給仕せさせ給ふおり、器を前に置キ給ひて、御前にむかへ居りたまふ時は、おとなしやかに御手をつき給ひ、側目をもなしたまわず慎ミおわします事、大人も及ビがたき御有さまなり。大殿御寝ならせたまふ側らを通らせ給ふおりハ、必ズ静にあゆませ給ふ。御供の人にハ、御とゝ様おねんねとのたまひて、静にせよとおしえさせ給ふ。ある時御伽の童、大殿の御側を通りしに、君は何をかなし給ひて余念なく遊びおわしましけるが、是を御覧じとがめて、其ノ童の手を取リ給ひ、大殿の方を向かはしめ、君、御時宜なし給ひて、わらわ(童)にもかくせよと教へ給ふ。是は立ぬるまゝにて大殿のかたわらを通りしゆへに、かくいましめ給ひしなり。大殿を敬ひ給ふ御心ふかくおわしましける事、此一事にてもおしはかり奉るべし。大殿の御元に参りぬる人、君の御部屋に参りて御愛々しき御遊びのやうを見奉れバ、帰ることを忘れ毎までも御伽なしけるに、御とゝ様御用おわしまさんまゝ早く参れとて帰し給ふ。御身の慰ミをバ差し置カせ給ひ、偏に大殿の方の事を思し召し給ふこと、かくばかりも渡らせ給ふものかなと、人々感じ奉りぬ。大殿の御側にて、御膳上らせ給ふとき、煮取の品など上ぬれバ、御気遣ひありて、あつうはなきやと問ワせ給へば、少しあつきもの上り給ふて、御目には御涙をふくミ給ひながらも、いゝへいゝへと御いらへし給ふ。さなくバ、捧げぬる人の御しかりをや請ケなんといとゐ思して、涙ぐませたまひながらも、かくはのたまふにぞありける。ケ様に御慈悲ふかく渡らせ給ふこと、朝夕何によらずおわしましぬ。ある時、御二階の雨戸袋にて御ぐし(頭)を打チ給ひ、少しなミだぐませ給ひしかば、傳の人々恐れミさわぎけるに、すぐさま御気しきを直し給ふ。日を経て御二階へ入り給ふとき、此ほどハあやまちして恐れ入りぬ由申シ上ゲしかば、ひい様御獨リでと仰セありき。君の御許江仕へ奉る年若き人、祝イ事の有りしとき、酒をいたく過して一夜勤メを怠りて明の日勤メに出し折り、上に立ぬる人、其ノ事をいゝ出シてしかりこらしめしかば、いと恐れミ困じ果テぬるさまを御覧じ給ひ、其ノ席をよきに取なし給ひしかば、君の御あり様の愛々敷キに紛れて其ノ事も止ミ、困じぬる人も常のさまになりて難有がりぬ。君の御元に仕へ奉る人々あやまちしけるおりは、其ノまゝよきに取なし給ふにて、済ぬること度々ありけるとなり。いりものなど上りぬる折ハ、御手づから一粒づゝ取ヲせ給ひて、あり合フ人々に給わり、扨、其時に居合せぬもの、夜に入りて出ぬれバ、思し召シ出給ひて、その者へも下し給わりぬ。

 

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