細川家における「預かり人」といえば、赤穂浪士17名がその筆頭として知られる所である。その他、最上家改易の時の家老(最上義俊の叔父)楯岡氏、徳川忠長事件で割を食った家臣・稲葉正利(春日局の子)、松平光長の御家騒動(越後騒動)に伴い切腹を仰せつかった家老・小栗の幼い男子三人などがある。幕末期には井伊大老を襲った水戸脱藩浪人を預かったり、一時的には森鴎外の小説「堺事件」でも知られるフランス兵13人を鉄炮などで殺害したとされる土佐兵を預かったりしている。
春日局の子・稲葉正利については春日局の意向もあって遠縁にあたる細川家を配流先に頼んだとも言われる。寛永十三年細川家に預けられたが(39歳)、奇行が多くてこずらせている。藩士・松下市之進が縁戚の故を持ってせわをした。側にあった女子に子・三内を成させたが亡くなっている。この三内に関し一つの事件が起っている。
寛永廿年四月廿七日、西郡要人・浅山修理宛て光尚書状(熊本県史料・近世編二 p210)抜粋
稲葉内記殿前廉つかハれ候荒仕子と三内殿おちと心在之しのひ入物語仕居候処を忍之者吉村勘左衛門・村田六左ヱ門
両人夜廻仕候とて聞付搦捕候由右之荒仕子をハ町籠へ入置候由又三内おち儀も白状仕候由其荒仕子儀ハ誅伐可仕候
おち儀者内記殿ゟ理りニ付五十日程籠へ入置出し可申之由年寄共申候 留守中之儀ニ候間如何様ニも年寄共次第ニ候事
肥後に配流されてから10年後のことだが、江戸へ帰ることを願い細川家へ肝煎りを願うなどしていた正利だが、母・春日局や兄で老中の正勝もなくなりその願いもむなしくなる中でのことである。88歳と長生きしているがどういう気持ちであっただろうか。